金神さんの寵地 

 大本の予言どおり日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし役員信者が待ちこがれていたような大本の神のはなばなしい出番はなかったし、世界の立替えにも直接つながらなかった。彼らはオコリが落ちたように熱狂からさめ、それぞれの暮らしに戻っていった。すみは夫を自由の野に逃してやった。明治三十九年九月、王仁三郎は三十六歳で京都の皇典講究所教育部本科二年に編入、大八車に野菜をつんで京の町を売り歩き、学資を得つつ学んだ。共同の敵を失った役員信者たちは気が抜けたように遠のき、竜門館には秋風が立っていた。四方与平という老人が朝夕の神前のお給仕に通うほかは猫の子一匹こない淋しさである。いつもそうであった。たとえ小松林命がかかっていようと王仁三郎がいれば教団は活気づき、いないとさびれる。すみは母や子供たち、それに穴太の実家を火事で失ったため綾部へ移住してきた王仁三郎の家族らをかかえて生活のやりくりに立ち向かう。縄ないや麦わら帽子編みの手内職をする。幼い時からなじんだ草がゆやドングリ団子で空腹をなだめながら、夫の留守を支える。長い苦しい教団の冬であった。京都の皇典講究所を卒業して神職試験に合格し神官の資格を得た王仁三郎が、建勲神社や御嶽教などで実地を学び、ようやく綾部へ帰ってきたのは明治四十一年の末である。帰るなり王仁三郎はふところの全財産五十銭銀貨一つを四方与平に握らせて、大広間を建て増す古家を探してこいと命ずる。あとの金などどうにでもなる。たとえ無一文でも仕事さえすれば金のほうで追っかけてくるというのが彼の信念だった。゛世界改造業者゛ これが、直日の小学校入学のときへ父親の職業欄に大書した王仁三郎の心意気であったろう。王仁三郎は縦横に腕をふるって教団の立替え立直しをはじめた。すでに教義はできていた。あらたに公認問題と取り組みつつ'祭式を整え、組織を充実させる。明治四十二年(一九〇五)二月には機関誌『直霊軍』を創刊して、文書活動に乗り出した. 「神の方はいつ何時でもかかるからいったん新聞に出して日本へだけなりと見せておかねは神の役がすまんから、この筆先出してくれいと申したならば早く出して下されよ。この出口にいま書かしたことを、せんぐり新聞に出してくださらんとものごとがおそくなりておるぞよ。新聞屋をせりたててくだされよ」(明治三十三年閏八月二十三日)と神は要求していた。王仁三郎がこの機関誌で最初に着手したのはなおの筆先の中での社会に対する予言と警告のくだりを解説的に外部へ出すことであった。B5判八ページの小冊子で発行所は綾錦社。おそらく王仁三郎の自室であろう。編集人や発行者は他の役員の名を借りているが、実際は印刷・製本・帯封書き・発送まですべて王仁三郎一人であった。開教以来十数年、丹波の片田舎で〞立替え立直し″ を叫びつづけた大本の主張が、当時の他教団では思いもつかなかった活版印刷によってひろく世人に訴えはじめたのである。明治四十二年五月五日、大広間上棟式、神苑を買い広めて秋には閲教以来の念願であった神殿も完成する。宣教は日に日に広がり、カある新しい役員たちが王仁三郎を支えて大祭は年ごとに賑わってくる。大正三年(一九一四)夏、王仁三郎は「竜宮の乙姫さんの池を掘る」と宣言した。「竜宮の乙姫殿にはお住まいなさる、お遊びなさる所をこしらえて上げますのざ。出口なおに初発の形がさしてあるぞよ。この近くの屋敷のうちにざいぶ(大分)大きな堤も掘らなならんぞよ」(明治三十七年旧十二月十八日)この筆先が出て十年、沓島ごもりから九年目に王仁三郎はようやくこの神命を果たそうとする。それを果たせずにいた長い間、胸にあたためていたのであろう。構想は雄大であった。建築中の金竜殿の西北に大きな池を掘り、池の中央には冠島・沓島のひな型を配し、小さな宮を祀って小舟で渡る.池の西側に大和島を作り、北と南からみろく橋をかける。池の東南隅から突き出た小島を蛙声(あせい)園と称し、小さな茶室を設ける。南の池畔には蝸牛亭を建てる。金竜殿の東側にも島を作り大八洲神社を造営する。将来は金竜海をさらに西に広げ東西の池を幅広い水路でつなぎ、その上に本宮橋をかける。全部完成すれば三千余坪の人工池が神苑内に満々と水を張りお宮のある小島や橋の静をうつす。これらは総称して〝金竜池″ と呼ばれるはずであった。この頃のなおは変わらず神務にはげんでいたが、坤の金神の守護となった王仁三郎にすべてをゆだねておだやかであった。王仁三郎から新しい神苑の構想に加えて、その中に日本のひな型として大八洲を配し、おしどりの遊ぶ天国浄土を移写すると聞かされたなおは神意の実現として喜んだが、ただ一つ〞池″ の呼称にこだわった。「この人間界での゛型゛はなたしかに池じゃろうが、神界にうつる姿はそんな小さいものでははござへんで。八百万のご竜体の神々さまがみなお集まりなさる大きな海やさかい・・・・・・」王仁三郎は即座に〞金竜海″ と改名した。金竜海の第一期工事予定地は野菜畑であった。この畑地を入手して以来、王仁三郎は雑草はびこる野に戻しておいた。潔めるためにである。「荒地にしておいては罰があたる」とすみは言い、奉仕者を励まして草を抜かせ、耕して人糞を入れる。王仁三郎がだまって野菜の芽を抜き、すみがまた植える。そんな争いを繰り返していた土地である。「お池を掘る土地を、潔めるためだと一言おっしゃれば、二代さま(すみ)だって畑にはされないでしょうに」と、のちに不満をもらした者に王仁三郎は答えている。「悪魔のさやる世の中、おしゃべりの多い世の中や。もしここに金竜海を掘ると明かせば神のお経綸にどんな邪魔が入るやら知れん。おまけにまだまだ土地を買収して神苑を拡張せなならん時代やった。もしそれが分かれば地価は一度に暴騰するやろ。不如意な大本の経済の中でのやりくりや。たとえ女房子供にでも洩らすわけにはいかん」金竜海掘りを発表した時点、すでに周辺の土地は彼の手で買い占められていた。王仁三郎のやり方は無謀なようでも慎重な準備とねはりづよい配慮があった。上野に三千五百坪の植物園を作り小松の苗を植樹したときもそうである。未来の神苑にはここで育った松を移植し松の縁でおおう腹であった。「小松林がこんな小松苗ばかり植えさせて」と怒ったすみが引き抜く。王仁三郎がまた植える。すみが抜く。王仁三郎が植える。たまりかねてなおに訴えると、「先生にお考えがあるのじゃろ」とすみをたしなめる。「それでも筆先には『今にたべものの不自由な時がくる。猫の額ほどの所にも種をまけい』と出とりますわな」とすみは言い返す。筆先を楯とするとき、すみは誰の命も聞かぬほど頑固であった。なおも合点し、王仁三郎を呼んで引き抜くことを命じる。「わしは神さまの言いつけ通りにしとるのや。教祖はんは知らんでも教祖はんの神さまは知ってなさる。開いてみなはれ」王仁三郎の言葉になおが神前にぬかずいて伺いを立て、やがてほっとしたように笑いだす。「すみや、神さまは『あの者の思うとおりにさしておいてくれい』と言いなさるわいなあ」七月二十五日に金竜海各島のお宮と蛙声園の起工式がおこなわれる。三日後の二十八日、第一次世界大戦が勃発した。日本も日英同盟の情誼を理由に参戦を決意。八月二十三日、対独宣戦を布告した。またまた立替え説に色めき立つ信者たち。しかし今度は前のような調子にはいかない。外の戦争に心うばわれるひまなどなかった。王仁三郎の池掘りにかけるすさまじい情熱に圧倒され、役員信者は総出で泥んこになり土を掘る、もっこをかつぐ。昼はみずから陣頭指揮にあたり、夜ごとの二時三時…寝静まる工事現場を一人こつこつ見回わる王仁三郎であった。真っ先に蛙声園の茶室ができ上がると居をそこへ移して執筆しながら督励した。金龍海掘りには教団の全精力を傾けた。「神さまがお急ぎじゃ、みな出てこい」 号令一下、老若男女小学生に至るまで作業を手伝った。奉仕者全員が動員されるため教団の事務といえば、黒門前の大広間受付けにただ一人坐っているだけである。池掘りは連日強行されたが、誰の胸にも大きな不安がわだかまっていた。ここらは高台の屋敷地で、四、五尺も掘り下げれば綾部特有の一枚岩根につきあたる。綾部の人たちはそれをよく知っている。「あんな高い所に池掘って水はどうする気やいな、夢でも見とるんと違うか」と噺笑し、〞金神さんの寵池〞と縛名した。すみが忠告しても「そんなこと知らん。神さまが掘れ言わはるさけ掘るだけじゃ」というばかり。冠島・沓島・大和島の形もととのい、簡素なお官を囲んで小松も植樹されたのにいまだに水一滴出ない。すみはあきれてぼやき出す。「ほんまに阿呆なことしよって、よい笑われもんやな。なした男やいな、この男は…」「まあ見ておれ、おすみ。もし水が出なんだら神さまの言わはることが嘘になる」王仁三郎の目には満々と水をたたえた金竜海が見えるのか、その表情に微塵のゆるぎもない。ある夜、京大阪方面の宣教を終わって終列車で帰綾した王仁三郎は、その足でまっすぐ工事現場に行き、予定どおり作業が進捗していないのを知った。統務閣(教祖殿ともいい、なおは晩年までその一室で筆先を書き、次の間を居室とした)に駈け込むなり凄まじい見幕でどなる。「こら! おすみ。わしが帰るまでにやっとけ言うたこと、まだ半分も出けとらん。おのれ、何さらしとったんじゃ」顔は朱をそそぎ、目はきらめき、髪は逆立って明らかに憑神状態である。そのままつむじ風のように深夜の町へ走り出し、本官、上野、東四つ辻などの役員や信者の家々を叫び廻った。「神さんの経綸がわからん奴はどいつもこいつも出て失せい」驚いた連中が寝ぼけまなこでぞろぞろと工事現場に集まる。肌寒い仲秋の真夜中、現場にかがり火をたき、そのあかりを顧りに強行作業が始まる。かがり火を背にして仁王立ちとなった王仁三郎。ふくれっ面のすみでさえ手を休めるどころではない。深夜の工事現場には殺気に似た緊張感がみなぎった。こうして徹夜の作業が何度かくり返される。ただやみくもに完成が急がれたばかりかというとそうでもないフシがある。若い者は王仁三郎に連れられて山へ行き、砕いた岩をロープで引っばって工事現場へ運ぶ。それらを金鳥海周辺の石垣に組む。「これこれを土台に、この石をこう向けにこう上げてこれはこう・・・・・・」と石積みの指示は細かい。ジャッキなどなくすべて人力だから五つ六つただ積み上げるさえ重労働である。積み上がった頃を見はからって王仁三郎が検分に現われる。「こら、こんなアホーな積み方があるか。やり直しじゃ」とせっかく積んだ石を挺子(てこ)で無惨にくずしてしまいさっさと蛙声亭に引き揚げる。みなはポカンとしている。「あれでは若い者がかわいそうです。やり直しやり直しでは工事も進まへん」と苦情を持ちこむ役員には、こう答える。「お前らの身魂の立替え立直しの型やわい」 そう言われても、どう積み直してよいかわからない。やがて役員たちは要領よくなり苦情のかおりに誰かが代表してあやまりに行く。「どうも不都合なことで申しわけございまへん。おっしゃるとおりに立て替えますさかい、もう一ぺん現場でお指図ねがいます」「みん本気で立て直したいと思っとるか」「へい、本気で心から立て直さしてもらいます」「よしほんなら行ったろ」ニヤッとして王仁三郎は嬉しそうに現場に出て行く。茜色の夕陽をあびつつまた土台からやり直しだ。来る日も来る日もこんな無駄と思える作業の中に、当時二十三歳の佐藤忠三郎も加わっていた。無性に娑婆が恋しくなる。現場から抜け出て本宮山の麓の薮かげに寝ころびなんとか大本から逃げ出す思案をしていた。「おい、佐藤。煙草の火をかせ」とつぜん薮かげから片手が出てきた。「逃げ出すのはまだ早い早い」 王仁三郎である。煙草をうまそうに吸いつけどっかと佐藤の脇にあぐらをかいた。「賽の河原の石積みや。積んでも横んでもくずされる。積まんほうがましやないか、わしもそう思うときがある。お前らといっしょや。築いても叩きこわされるんじゃ、いずれはなあ…」まるでこわされるのが王仁三郎自身であるかのような深い淋しい声だったそうである。「せっかく築き上げた石垣をなぜくずすか考えて見たことがあるか。竜神さんの池を掘るだけが目的やない。掘ることによって誠の信仰がどんなものか教えとる。たたかれても倒されても起き上がる。つぶされてもこわされても立直す。神の道は服従や。理屈をこえた神への絶対服従が人の道や。わしはその精神を植えつけとる」「だってみな服従しとりますやろ。あんな無茶なやり方でも神さんの命令だと思えばこそ文句も言わず…」「形の上ではのう。.しかし心の中では文句たらたらや。服従にも二通りある。軍隊で上官が兵率に強いるような権力による服従なら、まず形式を絶対とする。立替え立直しを実現する大本の神の道は形ばかりではあかんのや。心から任せきった精神的服従でないとこれからの使いものにならん。ばかげてると思ってもそこに我意以上の神意を感じて積み直す。それぐらい我を捨てんと今度の大神業のお役には立たん。わしも我意で考えれば、あんな所に池を掘って水が出るとは思わん。けれど神さんが掘れと命じ}なさるから掘るのや。籠池と笑われようが掘る。金竜海に水が満ちるのは神意だからわしらは気楽に掘ればよい…」。王仁三郎が立ち去ってからも佐藤はしばらく動けなかった。よーし、金竜海に水がたまるかどうかこの目で見届けてやる、わしの進退はそれからや。この思い出を私に語ってくれた佐藤忠三郎(尊勇)も今はない。生涯を大本に捧げつくして八十四歳の天寿を完うした。大正四年三月初め、大本を訪ねた町会議員や町の有力者を送って出て王仁三郎はそのまま空を仰いでいる。「また何か…」すみが側に寄ると王仁三郎の目にこぼれそうな涙があった。「おすみ、水が…水があちらさんからやってくる」「くる…言うても…どこにじゃいな」「金竜海にきまっとるわい」綾部町の排水溝は管理も不完全のまま荒れるにまかされ、汚水は停滞して悪臭を放っている。町当局でも放っておけなくなり御即位記念事業の一つとして新しく排水溝を作ることになった。たまり水の流水を容易にし、さらには防火用と耕地灌漑用にも利用したい。水源地の質山から引いた水は寺村を通り、すでに本宮山麓の高台に用水池として貯えた。そこから水を町へ落とすための勾配を調査すると、水路として必要な土地はいつの間にやらすべて大本の所有に移っている。町では寄合いが開かれ、どうしても大本の敷地内に水を通させてもらいたいと申し出てきたという。「神さんは『人の手を借り口を借り、でけんことさして見せる』と言いなさるがほんまやのう、おすみ--」 質山の水が金竜海にいったんみなぎり、そこから町へそそがれる…。役員信者の気勢はとみに上がって、総出で昼夜兼行の工事が続く。同時に町でも金竜海につながる水路を掘り進めた。ついに幅二尺、深さ一尺ほどの板樋いを伝い、清冽な水がほとばしってきた。王仁三郎・すみはじめ、泥んこの信者たちは水口に走り寄り、篭池と嘲けられた金竜海にいま確かに泡立ち満つる水を見つめた。「この竜神さんの池水がまず綾部の町の汚濁を洗い清め、やがては火と水で世界の泥をすすぐという型になるのじゃ」王仁三郎の声を開きながら、佐藤はせきあげる鳴咽をこらえた。…「神さんが掘れというから掘るんじゃ」という言葉だけが、その後の彼を大本に生かしつづけたのかもしれない。