有栖川宮落胤説

 今までふれまいとしてきたが、じつは出口王仁三郎には有栖川宮熾仁親王の落胤という出生の秘密がある。熾仁親王は明治維新のときの東征大総督であり、「宮さん宮さん、お馬の前でひらひらするのは何じゃいな、トコトンヤレトンヤレナ」の歌で知られる宮である。それよりも今の人には皇女和宮の悲恋の相手といったほうがわかるかもしれない。なぜふれまいとしたかといえば、「宗教的権威づげのために播き散らした貴種落胤説であろう。大山師王仁三郎のやりそうなことだ」ぐらいにとられるのを恐れたからである。しかし最後まで本書をお読みいただいた読者なら、判ろうとつとめて下さるにもがいない。この事実を頭に入れてもう一度本書の内容を思い返していただければ「そうだったのか」と、いっそう王仁三郎の心情や事件の深みを理解していただけるはずである。王仁三郎の生母上田よねが叔父夫妻のいとなむ伏見の舟宿に手伝いに行ったのが明治二年、明治天皇の勅命で東京に住いを移される前年、熾仁親王のお手がついた。親王は知らぬまま東京へ、懐妊に気づいたよねは郷里に帰ると急いで養子婿吉松を迎えた。王仁三郎は七カ月子であったと伝えられる。明治二十二年二月十一日に大日本帝国憲法が発布され、同時に『皇室典範』が制定された。第九条には「皇嗣精神モシクハ身体ノ不治ノ重患アリ叉ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及ビ枢密顧問ニ諮詢シ前数粂ニヨリ継承卜順序ヲ換フルコトヲ得」とあり、宮内省達第二号により皇族列次が定められた。熾仁親王は皇位継承順位第一位である。今日では公然の秘密であるように、大正天皇にはお若い頃より重い疾患があり、皇位継承者としての資格は危いところ。明治天皇にさわりが生じた際、皇位は順位に従って有栖川宮家に移り得る。熾仁親王の次はその子孫の順位となるのだ。よねが懐妊したとき熾仁親王の御子は男なら殺される」との噂におびえて夢中で穴太へ帰ったという。その後結婚された親王には御子がなかった(妃殿下お二人とも)。『皇室典範』「第七章皇族第四十二条」には「皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ス」とある。明治二十八年日清戦争の最中、熾仁親王は薨去したが、異母弟威仁(たけひと)親王が有栖川宮家を継承した。大正二年、威仁親王が薨去。王子裁仁(たねひと)親王は父王に先立ち、明治四十一年に江田島兵学校在学中二十一歳で夭折していたため、十代三百年間続いた有栖川宮家は廃絶、同時に大正天皇の第三皇子宣仁(のぶひと)親王が高松宮を賜わり、有栖川宮家の祭紀を継承する。裁仁親王の一粒の胤が地に落ち野に育ったのが事実ならば、有栖川宮の血筋は丹波の大本に引き継がれていたことになる。昭和三年三月三日のみろく大祭後、有栖川宮熾仁の姓名をひそかに詠みこんだ王仁三郎の歌が大量に発表された。数首を紹介しよう。 

*くれたけの伏見の里に通ひたる ひとりの子よのねなりけり

*神の子を腹に宿して育てたる ひとりの女世の根なりけり

* 「伏見」と「たるひと」と生母「よね」を同時に詠みこんだ歌。

草むらの草の下葉に生まれたる 化者知りたるひとは世になし

汚れたるひとの心を清めんと 瑞の御魂は王の井に湧く

*玉の井 穴太の生家の池

*軒ゆがみ壁の落ちたる人の家に 産声あげし瑞御霊かも

背に腹を替えてこの世に降りたる 人の言の葉仇花ぞなき 

腹借りて賎ケ伏家に産声を あげたるひとの神の子珍し

隔たりし天と地との結びより 生れ出でたる人の子神の子

久方の霞の堂に子と生れ 広く天地の教を世に布く 

*熾仁親王の号を霞堂という

*川上ゆ流れて来たるひとつ桃 拾いまつりし媼かしこし

*川上ゆは有栖川をさす  媼は王仁三郎の祖母うの

熾(さかん)なる仁愛にます神の子は はや地の上に天降りますらむ

ありとある べての物も山も よりて仕ふる御代ぞ恋しき

ありありと みきる和知の水は 汚れはてたるひとの世洗ふ

父君と名乗りもならぬ運命の 綱にひかるる身こそ悲しき

 

これらの密意はそれ以前からすでに大本の中では公然の秘密であった。もちろん、大本を弾圧した黒幕・検事側とて百も承知のうえである。もしこれが嘘言であるならばまさに゛昭和の天一坊゛事件であり、これらの歌群を歴然たる証拠として不敬罪は決定的なはずである。どうでも地上から大本の名を抹殺せよとの合言葉に血まなこになって重箱の隅をつつき廻ったくせに、鬼の検察側がかんじんかなめの落胤問題に関してのみ、終始三猿主義で押し通したのはどうしたわけか。二度にわたる弾圧で検察側が落胤の証拠となる品々をすべて没収、おそらくは焼却したのであろう。事実を知ればこそ、まかり間違えば両刃の剣となっておのれに返ることを恐れたのだ。

証拠の品々は、大正六年の秋頃、噂を知って穴太に詰問に走った出口すみが、上田よねに見せられている。白い小袖をちらと見ただけですみは衝撃のあまり穴太をとび出し、気づいたときは京都の二条駅に立っていたと後年よく語っていた。すみの心情が読者にわかっていただけるであろうか。獄中の取調室ですら思わず「これが改心せねば」と口走るほど、すみには筆先の精神が染みついているのである。上に立つ神が国祖を艮へ押込めて、この世を乱したのであり、その血統がこともあろうに夫王仁三郎・水晶の種であるべき直日の血へと受け継がれていたなど、すみにはどうしても許せなかったであろう。王仁三郎が高熊山へ入るのも、救世の神示を確かに受けとめるのも、筆先でいう悪の御用を受けるのも、あがない主として獄中に坐するのも、すべての底に上に立つ神の血の宿命の覚悟があったれはこそではないか。

私が王仁三郎の誘発贖罪説などを考える根底にも、じつはこの彼の心情を思うからだ。皇祖アマテラス大神に胸を合わせてぶつかっていくスサノオノ命役が、まったくの百姓吉松の子にできるものであろうか。また王仁三郎に従った頭山満・内田良平・陸・海軍人や貴族たちも彼の出生の血を知っていたことを思えば、「高天原を奪りにきた」など噴飯もの。火・水の戦いから二度の弾圧、こっけい極まるいも・大根裁判まで、じつは笑えぬ根があったわけなのである。事件を担当した小山昇弁護士の証言によれば、弁護側も落胤問題を提起してその証拠品を湮滅(いんめつ)し去った検察側を逆に不敬で責めるべきかどうか討議をかさねたそうである。しかし今となってはそれを立証する決め手に欠ける。いやなまじの立証は当時の暗黒警察のこと、獄中の王仁三郎の身にどんな危害が降りかかるか知れぬ。薮をつついて蛇を出す愚を恐れ、弁護側も沈黙を守らざるを得なかったという。 ただ一度だけ、昭和十五年十二月十一日の第二審の分離公判(大阪公訴院第三号刑事法廷)で高野裁判長は落胤問題に関して王仁三郎に問いただしている。 「被告人が大本ヲ拡メル様ニナリ自分ハ有栖川宮ノ落胤ダト云フタトノ事ナルガ、ソレハ何時頃カラカ」「私ハヨク知リマセヌガ、私の祖母ガヨク母二対シテ勝手ナ事ヲスルト云フチ始終虐メテ居リマシタガ母ハ何モイハズニオリマシタ、処ガ、母ガ死ヌ一寸前二母ガ私二話シテマシタガ、母の母親ノ弟二当ル人ガ伏見デ侠客ノ大将ヲシテ居リマシタガ有栖川宮様ガマダオ寺二居ラレタ頃 其処二出入リヲシテ居り、叉料理屋ヲモシティマシタノデ、伏見二御成リノ際ハヨク寄ラレタトノ事デアリマシタ、叉祖母等ノ話ニヨリマスト母ハ若イ頃ハ発展家デアリ、其ノ為祖父母ガ母ヲ其ノ叔父ノ所へ預ケタトノ事デ、其ノ際二御給仕二出タリ何カシテ、ソレカラ私ガ出来タト云フノガ母ノ話デアリマス 母ハ私ニコンナ事ハ恐レ多イカラ云フナト云フテ隠シテ居リマシタガ、母ガ死ヌ頃ニ、二、三人に喋ツタラシク、ソレデ拡マリマシタ」「被告人モ人ニ話シタノデハナイカ」「私ハ話シマセヌガ、心覚エノ為二歌デ一寸出シテ置キマシタ」「道歌中二読込ンダモノガアルノカ」「左様デアリマス」「叉昭和三年七月頃ノモノニモ、其ノ事ヲ読込ソダ歌ガアルノカ」「左様デアリマス」「其ノ事ヲ歌二読込ソダノハ此ノ頃ヨリモット前デナイノカ」「其ノ頃カラデアリマス、私ハ其ノ様ナコトハ畏多イカラ云ヒハシマセヌガ、心ニハ非常二感激シテ居リマシタ。母ガ云ヒマスシ、祖母ガ母ヲ虐(いじ)メテ居夕事等ヲ考へテ、確カニサウカト思ヒマシタ。他人カラモ私ガソウデナイカト聞カレタ事ガアリマス。ソレハ京都ノ古イ知人デアリマス、然シ私ハソレハ判ラヌ、ソンナモツタイナイ事トイフテ居リマシタ」「ソノ事ヲ歌二読込ソダ目的ハ」「親ノ云フ事モ信ゼネバナラズ、自分ノ常識デハソウデハアリマセヌガ、親ノ云フタ事ヲ録シテ置カネバ不可ヌト思ツタカラデ他意ハアリマセヌ」「他人二知ラセル心算ハナカツタカ」「ソレハアリマセヌ、ソレデ判ラヌ横ニ読込ンダノデス」 「ソレナラ読込ソダモノヲ文献二出シ発表スル事ハ要ラヌデハナイカ」「左様デアリマスガ、アア書イテ置ケバ判ルマイト思イマシタ、又発表ハ編集ノ者ガ私ノ歌ヲ出シタノデ止メル間モアリマセヌデシタ」「発表シタノハ二度デナイカ、此ノ様ナ事カラ他ノ人こそサウデナイカト尋ネタノデナイカ」「私二尋ネタノハ京都ノ古イ婆サンデ、信者デハ尋ネタモノハアリマセヌ」「信者ハ歌二此ノ事ノ読込ソデアル事ヲ知ツテ居タノデナイカ」「サウラシイデス 鋭敏ナ頭デサウ観タンダラウト思ヒマス 私モ実際ニハ半信半疑デ歌ニシタノデス」「被告人ハ其ノ様ナ事ハナイト思フテ居タノデナイカ」「ナイト思ヒマシタガ母ガ重ネテ云ヒマスカラ叉舞戻リマシタ」「被告人ハ此ノ事ハ否認シテ居ル様デナイカ」「否認ツタカモ存ジマセヌガ、此ノ事ハ私ノ心ノ中デ今デモウウロシテ居ルノデアリマス」「予審デハ、私ノ不心得カラ落胤卜云フタ事ガアルガ全ク根拠ノナイモノダト述べテイルガ如何」「ソレハ云ヒマセヌ 私ハサウ供述シタトハ思ヒマセヌ 私ノ所二守刀卜産着ガアリマス ソレハ火事ノ時二焼ケマシタガ サウ云フ事ヲ考へルト、矢張リサウカト考へルノデス」「被告人がなか(註-出口開祖の戸籍名)ノ娘福島久子ニ頼マレテ初メテなかヲ訪問シタガ、金光教ノ布教師足立政信カラ拒マレテ帰ツタカ」「左様デアリマス」

 虚実をとりまぜたぬらりくらり問答のうちに、じつに幾つかの示唆に富む問題点が含まれている。高野裁判長が王仁三郎落胤説を全く根拠のないこととして否定させようとするや、王仁三郎の態度が一変し、落胤であることを主張するとたん高野裁判長は話題を転じる。慎重で峻烈な取調べをもって鳴る高野裁判長の舌鋒がなぜこの一点の決め手をとらえて追究せぬのか。明らかに判りそうな王仁三郎の嘘の答弁すら、気づかぬふりで見逃がす始末である。王仁三郎の嘘とはまず熾仁親王の落胤であることを知った時期について生母上田よねの死ぬ「ちょっと前」というのは嘘。よねの死は昭和八年六月だが数えきれぬほどの読込歌が発表されたのはその五年前の昭和三年、王仁三郎が出生の秘密をそれとなく信者にもらしていたのは大正初期の頃からである。したがって「母が死ぬ前に二、三人に喋ったのが広まった」というのも嘘。裁判長にもそれぐらいわかっているはずだ。むろん王仁三郎が落胤説に関して半信半疑であったなども嘘。大本入りの以前からそれを深く自覚していたことは、彼の言動からもうかがえる。王仁三郎の法廷の答弁の中の「京都の古い知人」「京都の古い婆さん」というのは鶴殿ちかこ親子(大本では王仁三郎の命名で大宮守子と名乗る)のことである。鶴殿親子は正二位権大納言醍醐忠順の次女として生まれ、明治天皇の皇后一粂美子(のちの昭憲皇太后)の姪にあたる。大正六年春の入信だが、親子を大本に引き寄せた原因は王仁三郎が幼い頃からの親子の書道の師であった熾仁親王の落胤との噂を聞き(つまり大正六年時点でこの時は東本願寺など外部にも語り伝えられていた)その真偽を確かめに単身参綾し即日入信した。王仁三郎が熾仁親王に生き写しであることに驚いたのが入信の動機なのだ。親子は大本事件中の昭和十六年、熱烈な信仰をつらぬき通して七十六歳の生涯を終わった。当然、高野裁判長も親子について知っていながら追究をさけ、王仁三郎もそれが何者であるかを積極的に語って身の証しを立てようとはせぬ。「全ク根拠ノナイモノ」との言葉にはきっぱり反発しながら、「此ノ事ハ私ノ心ノ中デモウロウロシテイル」と呆けて見せる。「守刀卜産着ガ火事デ焼ケタ」というのも嘘。明治三十四年に上田家は火事で全焼したが、証拠の品はよねが命がけで出している。その代わり長持いっぱいあった丸山応挙の下絵はすべて焼いてしまったのだが。王仁三郎落胤説の実証について私はかつて『おほもと』誌に「随想大地の母」として九回にわたって連載し信念に近いものを抱いている。出口なおは王仁三郎の血の秘密について何も知らされずに没したのであるが、なおにかかる神はすべてを見透していたかのようにいくつかの筆先を残している。 

天にひとり地にひとり かわらん身魂の性来の、やまと魂のたねが一粒かくしてありたのを世に上げて二どめの世のたねにいたすには。たれもこの世に知らんこと 世に出ておいでなさる神にもご存じなきことであるから、なににつけても大もうばかりざぞよ-(明治三十五年旧十二月一日)