耀盌(ようわん)顕現

 本書では、予言者としての王仁三郎をおもにとり上げてきたが、異色の芸術家としての世評も近年とみに高い。書・絵・陶芸・建築・演芸・詩・歌と多岐にわたる新境地を開拓した。とりわけ最晩年に創り出した゛耀盌゛と称される楽茶わんは世界的な評価を高めつつある。王仁三郎の茶わんづくりは大正十五年から始まるが、未決拘留中、色どりに満ちあふれる天国の姿を楽焼に表現したいと想を練っていた。出所後その希望を持ちつづけつつも戦時下の統制のため材料が手に入らず、しばらく実現をみなかった。昭和十九年十二月二十八日、京都清水の窯元佐々木松楽(しょうらく)が亀岡の下矢田に疎開していることを聞いた王仁三郎は、心はずませ、さっそくに松楽の窯をたずね、土をひねって見本をつくり下焼きをした。あけて昭和二十年元旦、その茶わんに一筆画を染筆、三日には釉薬をぬり、約六十個の楽茶わんが生まれた。以来七十を越えた老齢と高血圧に苦しみつつも、連日のように松楽窯に通っては深夜の一時二時に及ぶこともしばしばであった。土をひねるときも、絵の具をぬるときも、竹べらを使うときも真剣に祈りをこめた。それだけに完成して運ばれてきた茶わんを見るときは得意満面のごきげんであり、その場に来あわせた人に惜しげもなく与えた。すみは王仁三郎の健康を案じ、しばしば注意したが聞かばこそ、すみのすきを見てはいたずらっ子のようにそっと家を抜け出てゆく王仁三郎の姿が今も目に浮かぶ。しかし六年八カ月の未決の苦しみをへた肉体には無理な作業であり、しだいに疲労が蓄積される。ついには「腕がうごかん」と言いだしては休息することも多くなり、高血圧症状で寝こんだこともあった。茶わんづくりは昭和二十一年三月、三十六回目の窯をもって終わったが、わずか二年余の問で三千個の多きに達した。王仁三郎の楽茶わんに信仰的価値は別としても真の芸術的価値を見出す人はいなかった。一人王仁三郎は「この茶わんはいずれ国宝になる」と誇っていた。それは楽茶わんの常識をはずれた極彩色のけんらんたる色であり、わびさびを重んじる伝統的茶道とは異質のものであった。だから王仁三郎から茶わんをもらってもぞんざいに灰皿がわりにまで使った人もあったようだ。子供の私にまでたくさんくれたが、私にはその価値もわからず、ほしがる人があればくれてやったものだ。王仁三郎の楽茶わんの芸術的価値を発見したのは、日本美術工芸社主幹であり斯界の第一人者とされる加藤義一郎である。

 加藤は昭和二十四年二月六日、岡山の伊部(いんべ)で陶芸家金重陶陽(備前焼・人間国宝)をたずねた。その日の加藤の日記によると「陶陽氏不在、令弟七郎氏と語る。王仁師手造『天国甘八』『御遊』の盌をみせられておどろく。その色彩とリッチさ、茶盌の姿、芸と人格、天才」とある。加藤はのちにその回想を記す。「--それは〝天国甘八゛ というのであったが、銘も箱もかくされて、裸のままで私の前に出された。私は一見してびっくりした。ゆっくり見て行くうちにその驚きは歓喜となった。こんな近代フランスの油絵のような茶わんがあるなどとは、いささか茶わんには自信に似たものを持った私にも夢にも思われないことであった。それはらくやきという常識からも天と地くらい隔離した゛らくやき゛ だった。百花ケンラン、フランスの美の感覚にも負けようとは思えない色彩が光りかがやき、しかもつつましく形造られて、異議なくお茶をのませる超理想的な、このような茶わんがあったのである。よくぞ生まれていたものである。その後十年、私も年をとったが、その日の歓喜は忘れてよいものではない。何というしあわせ者だろう…と心に銘じた歓喜はいまなお血を湧かしうるのである」加藤はこの溢れ出る感動を『日本美術工芸誌』三月号(昭和二十四年)に「耀盌顕現」と題して発表、日本の芸術工芸界・茶道界に大センセーションをひきおこした。王仁三郎の薬茶わんはにわかに世の脚光を浴びることになる。それから四半世紀後の昭和四十七年十月、耀盌は海を渡る。パリ市主催・フランス文化省、海外省後援の海外作品展がパリ市立セルヌスキー美術館で開催され、引き続いて三年三カ月にわたり欧米六カ国、十三会場にわたり展覧会が開かれ、全世界の注目を浴びるに至ったのだ。 「それ見たことか」と得意げな天界の王仁三郎の顔が思い浮かぶようである。私は人に天国の様子を訊かれたときには、書斎に飾ってある耀盌を見せることにしている。それは天国を示しつづけてきた王仁三郎が、その生涯の総仕上げとして創り出したものであり、人類生命の根源をなす火と水と土とを素材に、天国の美をこの地上にもたらそうと全霊全魂を打ちこんだ、天国の具象化そのものだと思うからである。昭和二十年暮、保養のため鳥取の吉岡温泉を訪れた王仁三郎の談話が『大阪朝日新聞』の十二月三十日付紙面に「予言的中火の雨が降るぞよ…新しき神道を説く出口王仁三郎翁」の見出しで掲載された。「自分は支部事変前から第二次世界大戦の終るまで囚はれの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を全部たたき壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されている。・・・自分はたゞ全宇宙の統一和平を願ふばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧をうけた。゛火の雨が降るぞよ゛ のお告げも実際となって日本は負けた。これからは神道の考へ方が変ってくるだらう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国弊社の祭神が神様でなく唯の人間を祀っていることが間違ひの根本だった。しかし大和民族は絶対に亡びるものでない。日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加はり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつゝある」

敗戦後の苦しみが昭和二十五年まで続くというのは、それまで連合軍の占領が続くことの予言であろう。とくに注目されるのは、日本の軍備撤廃が世界軍備撤廃の型であり、そのときこそ世界平和が実現されるのだと、向後の人類の進むべき道を示唆した発言である。昭和二十一年の春から夏にかけ事件で徹底的に破壊され、乱れきっていた綾部・亀岡両聖地のとりかたずけが始まり、あらたな構想による築造整備が全国から集まった信徒の献労奉仕によりなされてゆく。炎天下老躯をおしての連日の陣頭指揮に王仁三郎には疲労の色が次第に濃く見えはじめた。八月二十六日、脳出血の第一回目の発作がおこり以来、臥床の身となった。半身不随で動くことはできなくても、生来の楽天主義で病室は明るいふんいきに満ち溢れていた。「わしはこうしていることがご用なんだ」と一部屋にありつつも王仁三郎に懸るスサノオノ命の精霊は世界各地を駈けめぐっていた。しばしば側近に「觔斗雲(きんとうん)車」に乗ってエルサレムに行った。「中国の万寿山に行った」「外国へ行ったが、ミロクさまのお降りだと言って、足や手にすいついてきて困った」などともらし、また「全国の信徒の祈る声がきこえる」とか「誰それが救いを求めている」とか口にしている。種々の霊的現象も起こった。しかし肉体の衰弱はどうしようもなく進んでゆく。昭和二十三年一月十八日、容態が悪化し翌十九日午前七時五十五分、肉親や側近に見守られつつ、数え七十八の生涯を閉じたのである。艮の金神に約束なされたスサノオノミコトの大地での経綸は終り、あとは天界での大経綸をなさるのみ、すみは身なりをととのえ、枕頭に両手をつき「先生、まことに長いあいだご苦労さまでした。これからは私があなたのあとをついで立派にやらしていただきます。どうぞご安心下さいませ」と誓った。それでも王仁三郎の死が全国信徒に与えた衝撃は深刻であった。神苑内には全国から信者がはせ集まり、手を取り合ってむせび泣いた。教団全体が呆然自失のときすみだけは胸をはって叱鳴する。「聖師(王仁三郎)さんがいなくなってもここにわしがいるじゃないか」…その通夜であった。廊下に出て行きかけたすみは障子の所でふり返り、「めでためでたの若松さまよ」とうたい出した。誰もがあきれて見守る中を、手拍子とって踊る。「お婿さんが亡くなったのに嫁さんが踊っていたらよい気狂いやと言われるやろなあ。けどめでたいと言うてはいかんのやけれど本当はめでたいのやで」といかにも明るく笑う。絶望に打ちひしがれた信徒の心を少しでも光明へ向け変えようとする腹芸であったろう。二代苑主となったすみは、王仁三郎の霊と一体化したような変貌をとげ、迫力ある指導ぶりで教団の先頭に立っていた。すみはとりわけ大地の恩をくり返して説いた。

人はみな土よりいでて土に生き 土の思うけ土にかくるる

一さいを 生み出す土の神の恩 知らずに送る人ぞうたてき

天の恩 知るとも地の恩知らざれは 母を忘れしごとくなりけり

月のご恩 水のめぐみ土の恩 さとりし平和の世こそ待たるる 

 

また世界平和にかける情熱は激しく、昭和二十四年には、事件で解散させられていた人類愛善会を復活させて総裁に就任、みずから世界連邦運動に参加する。出口伊佐男人類愛善会会長をジュネーブの世界憲法制定会議に派遣する昭和二十五年には。五十六万七千部の人類愛書新聞一部売りの街頭に立ち、世界連邦運動の宣伝と代表派遣の費用を生み出していた。二十貫の巨体を運んですみは全国各地を巡教する。 みちとせの神の経綸給のあけがらす 世界平和の道はこのみち戦争に 入れるカを平和なる 道につくせばこの世天国無抵抗できづく平和にあらざれは 其の平和は来たることなし国々の 人の心がそろひたら この世はたちまち地上天国晩年のすみに対して〝大地の母〞〝人類の母〞などという途方もない敬称をたてまつったのはむしろ大本外部の人たちである。すみの風貌や素朴でいつくしみあふれる言動にふれた人びとは、それがいかにも似つかわしくひびいたという。すみの書を綾村担園が「天衣無縫、これほど体あたりした書を他に見出すことはできない。…何と無造作な無邪気なかな文字の遊びであろうか」と評し、谷川徹三、棟方志功、北大路魯山人なども絶賛。近年海外にまでその名を高めているが、師について学んだものではさらさらなく、天性の人柄そのままの野の流露といえよう。かんながら下手な字を書く天下一二代の世は短いぞよ- の筆先の予告どおり、すみが逝ったのは王仁三郎没後四年の昭和二十七年三月三十一日朝である。六十九歳二カ月の生涯を激しく燃焼しつくしてひそかに終わっていた。その二日前「八百八光のほととぎす 声はすれども姿は見へぬ 金勝要神 (大地の金神)はかげから守りておる」と詠ったのが辞世の句となった。