第二次大本事件

一年有余にわたる当局の極秘の布石を終えて、昭和十年十二月八日未明、ついに強権発動、綾部・亀岡の両本部はじめ全国各地の大本諸機関に日本宗教史上未曽有の大検挙の嵐は吹きすさぶ。前夜午前零時、京都御所ほか二十数カ所に集結した綾部大隊五個中隊と、亀岡大隊六個中隊は、窓のホロを探く閉ざし灯を消した大型市バス十八台と乗用車四台に分乗、午前一時には綾部大隊が先発、三時には亀岡大隊が、完全に遮断された京都~綾部間八十キロの山陰街道をひた走る。非常召集された彼らがはじめて目的地を知り、 「大本討入り」を明かされたのは老の坂峠に達した時点であった。必死の覚悟を申し渡された彼らは、白布を腕に巻き、白たすきを斜めにかけ、鉄かぶとをあごにむすんで、軍靴をぞうりにはきかえる。足音を消すためであった。月明に浮き上がる明智光秀の城あと、亀岡天恩郷の大本本部百数十棟の殿堂に忍び寄る決死の武装警官大隊によってひたひたとおし包まれていった。交錯する探照灯、切断される電話線。午前四時三十分、指令一下「火事ダ」「電報、電報…」それが合い言葉の異様な連中.そのとき私は光照殿の一室で、母や弟と安らかに眠りについていた。枕元に乱入した土足の警官たちを見て、逃げる泥棒でも追っているのかと、母は他人事に思ったらしい。警官たちは五歳の私と三歳の弟から荒々しく母をもぎとり、亀岡署の冷たい雑居房に投げこんだ。隣室から伯父出口元男が令状も示されず拘引される。亀岡では二百三十名の警官隊によって役員信者百五十人が検束、百十人が留置された。綾部の梅松苑では三百人の警官隊によって役員信者百五十人が検束、六十七人が留置された。伯母出口直日(当時三代教主)は三人の幼子とともに信者宅に軟禁の身となる。検束をまぬがれた信者にはただちに帰郷を強制、光照殿はじめ建物のすべては釘づけ封鎖する。昨日までは、のどかですがすがしかった大本神苑内には、ものものしい検事や警官の群ればかりが立ちふさがっている。その異様な空気だけは幼い私の心底も焼きついて今なおはっきり残っている。東京では約八十名の警官隊が昭和神聖会本部など六カ所を捜索、大本幹部八名が検挙されるが、「関係者一同はいづれも落着き払ったもので、出口宇知暦(父・伊佐男)の如きは終し徴笑を浮かべながら何事もなかったような態度で護送されて行った」と、その日の大阪朝日新聞は報道している。大本の首魁、出口王仁三郎は松江市の島根別院に滞在していた。前日の七日夕、綾部から到着した妻すみと、大国以都雄とともに、赤山の対岳事でくつろぎ、夕陽の映える大山の雄姿を望みつつ亭内の名残りの紅葉をたのしんだ。そのおり、王仁三郎が「゛裏を見せ表を見せて散る紅葉゛ 誰の句<実際には良寛の句>だったかなあ」と語るのを大国が聞いている。またふもとの警察部長官舎のあたりを見下ろしつつ誰にともなく「明日は大雨だな」と咳いた。その夜、王仁三郎夫妻は赤山山上の三六亭に宿泊する.松江には二百八十人の武装警官隊が急襲したが、柔剣道二段以上の猛者十五人が水盃をかわし「大本では剣・銃・爆弾などの装備も相当充実している模様である。如何なる事態に発展するか知らぬが、諸君の生命は只今頂戴する」との悲壮なる訓示を受け、先陣の決死隊をつとめる。王仁三郎は衣服をあらため、すみが火をつけてさし出した煙草をうまそうにすったのち、「急に用事ができて京都に帰ったと信者に伝えてくれ」(大阪毎日新聞記事)と、すみに言い残し、松江署へ連行される。「梅で開いて松で治める」との筆先の言葉に義理立てしたか、第一次は梅田署、第二次は松江署が王仁三郎逮捕の御用に使われた。この日強制捜索を受けた場所は全国で百九カ所に達し、大本幹部・有力信者四十四名が翌九日までに各地から京都市内の八警察署に護送留置された。全国の地で、どこ一つ抵抗どころか混乱すらもなかったのに、何をまた夢見たのかこのドはずれた大捕物陣。「子子子、子子子」も読みようで変わる。「猫の子、子猫」か「獅子の子、子獅子」。信者の末端にまで浸透する無抵抗主義の大本も国家権力の色メガネでみれば暴力団とでも写るのだろうか。島根別院他五カ所は捜索、押収を受け、大祭は当然中止と思われたが千五百人をこえる参拝者は動じなかった。号外などで事件を知らされながら警察監視のもと、二代教主すみを中心に水を打ったような静けさで午前十時大祭、午後一時に歌祭り、七時からは予定どおり神聖歌劇を奉納した。スサノオノ命の神歌発祥地出雲の松江での三回目の歌祭りこそ、その日からの十年を出雲八重垣(牢獄)の奥深く閉じこめられる王仁三郎のための予言の歌、門出の歌ともなったのだ。弓太鼓が、八雲琴が、献詠歌が゛誠゛一つにとけ合って「いつかはらさむ万代を経て」の祈りを天地にとどけとばかり宣り上げていく。

八日午前五時、はやくも大本検挙をスクープした大阪毎日新聞が号外第一号、つづいて第二号、第三号を出すと抜かれた他紙は負けじと派手な大見出しを競う。「妖教大本の大陰謀」、「断乎! 抹殺の方針」、「突如一大秘魔城に大旋風」…全国浄々浦々にまでその号外の音は響き渡った。

京都の各警察署に分散留置された王仁三郎以下六十五人に対する取調べは峻烈をきわめた。その目的は自白の強要にあったから、当然、特高警察の常套手段をむき出しにしてくる。三尺のびた長髪をひきずり回され、なぐるけるの暴行に何度か失神しながらも、王仁三郎は耐える。いさざよく王仁三郎の命に服して長髪、ひげを切り落としていた入牢の幹部たちは初めてその悲痛なわけに気づいたであろう。

一月二十七日には、ついに王仁三郎まで長髪を根元から刈る。断髪直後の王仁三郎の写真が新聞に掲載されたが、左手は開け、右手はにぎって人さし指一つをのばし、さりげなく-膝においている。

  この六本指の報道写真は王仁三郎が天下に示す「無()罪」のサインだ。どんな機会をつかんでも逆境に立つ信者たちをはげまさずにはおかぬ王仁三郎の愛の心なのであろう。この断髪の写真でよくわかるのは、後の髪は黒いのに額のふちばかりが目立って白いことであろう。王仁三郎の歌にこんなのがある。「額毛に霜おきながら髪長く 濃きは弥勒と蒙古の智者謂ふ」

取調べのほこ先はまず直日の婿であり、王仁三郎の後継者と目される出口元男に集中した。王仁三郎は歌う。

拷問にかけられわが子のヒイヒイと 苦しむ声を聞くは悲しき

日出麿(元男の大本名)は 竹刀で打たれ断末魔の 悲鳴あげ居るを聞く辛さかな

昭和十一年二月、人間の耐え得る限界を超えた元男は、日赤病院へかつぎこまれ、明らかなかな精神異常にもかかわらず、さらに中立売署に移されて取調べを受ける。

二月二十五日、内務省の唐沢警保局長が、京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教はわが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教で、断乎として根絶を期さねはならぬ」

と訓示。翌日未明、二・二六事件勃発。参会者は青くなって任地へとんで帰ったため、予定の現地視察(綾部・亀岡)も祝宴もお流れとなってしまった。二・二六事件の首魁北一輝は、大本事件前の十二月六日、極秘のうちに王仁三郎と会いクーデター計画をもらして資金二十五万円を求めた。「そんな金は手許にもないし、神さまが人殺しのために金など出してはいかんと言われる」と王仁三郎はかるく一蹴、「国家の大事を打ち明けた以上、命はもらわねはならん。京都に十二人の刺客を伏せてある。命か金か二つに一つだ」と北は喰い下がる。王仁三郎は今日松江に立つことを話し、「四、五日待て」となだめて帰した。

鳥取、島根をまわって八月未明、松江で捕われの身となったのだから実は警察に保護されたも同然。北一輝らはさぞ地団太踏んでいただろうとのち王仁三郎は語っている。そんな王仁三郎の真意すら介せず'右翼の資金源を断つための大弾圧であるなど、唐沢警保局長は豪語するのである。

当時の拷問がいかに惨酷をきわめたかは、いまさら書くまでもない。幹部の栗原白嶺(はくれい)は、自白させられた三月九日夜、中立売署の独房で溢死する。六十四歳。独房の板壁には爪で刻まれた遺言と辞世の歌一首。

「…私は憧れの天津御国へ参ります。…大本の神に仕へて十余年 かかる悲しき終りを見るとは」

翌十日、綾部署は二代教主すみを連行、 「一切を清算せよ」と説教の末、すみの名義である綾部の土地処分の委任状に捺印をせまる。「土地は神のもの、信者のもの、大本には一切を清算しなければならぬような悪事のおぼえはない」とつっはねるすみは、そのまま留置される。十二日、再度の強要にもすみは屈せず答えている。「大本は日本のひな型、大本でおこったことは必ず日本に、世界に写る。この神苑を手渡すことは、やがて日本が外国に奪られる型になると神さまがいわれますのや。それでも捺印せいというのなら、私を殺してからにしなはれ」

そう言い放つすみの腹中には、゛大本は世界の型゛ の信念がしっかと根をおろしていた。事めんどうと警察は十三日、改めてすみを検挙、翌日京都に護送し五条署に放りこんだ。それからの六年四カ月、すみは何のくったくもなげに、明るく獄中に生きるのである。すみ検挙の十三日、王仁三郎ら八人の起訴が決定。

検事が裁判所に起訴した事件の核心とは何であったか。すなわち「出口王仁三郎は日本帝国の皇統を否認し、自ら世界を統一して独裁君主たらん」とし宗教の美名にかくれて世界(あるいは国体)変革の陰謀をはかり、結社を組織した」というのである。国体変革の目的意図があったとする証拠にお筆先の神示が上げられ、結社を組織したという日時を昭和三年三月三日、みろく大祭の時の至聖殿上でときめつける。

その方法といえば、大祭のときに幹部十七、八名の内陣昇殿を許したこと。王仁三郎がそのおり不逞目的を含んで次の歌を詠んだこと。よろず代の とこ夜の晴もあけ放れ みろく三会の暁きよし祭典終了後の御供物の下げ渡しのおり、王仁三郎がリンゴ三つをとったのは日・地・月をつかむ、つまり世界の独裁者となる意図。すみに大根を与えたのは、世界の大根、つまり皇后になれの暗示。幹部に一つずつ親芋を渡したのは、この陰謀の一方の旗頭になってもらいたいの密意。しかも、その意味を強調するため、「この芋を他人に食べさすなよ」とまで言い添えて渡した。以上が秘密結社の暗黙の誓いだとして認めよ、と攻めるのである。警察では、王仁三郎らは「昭和の弓削道鏡だから情け用捨はいらぬ」とばかり天皇陛下の御名でむごい拷問をかさぬる。肉体の上になお精神的しめ木をかけてくる。「王仁三郎はすでに自白し、髪まで切って更生を誓っておるのにお前はまだ頑張るか。(これはウソ。ワナだった)これからは四つ足扱いにするからそう思え」「あくまで死を賭して戦う」 これらは威嚇だけではなかった。死に至らしむるも自白せしむる決意と知って、出口伊佐男は観念する。もしも中途に倒れば事件の真相は不明のまま闇から闇へ永遠に葬られて了はねばならぬ。…父(王仁三郎)もすでに同様の強圧的御取調べのため不本意ながら取調官の御意のままに御任せ申したものであろう。いずれの日か真実の主張の出来る処へ出た時、自分は父に次いで大本の真相を釈明すべき重大なる責任がある。そうだ、時を待とう。それまではすべてを隠忍して生きていなければならぬ。父の真意も必ずそこにあるであろう‥・」と、伊佐男は自白に至った心境をのちの上申書で訴える。

内務省は大本関係八団体の解散命令と本部および地方の教団全建造物の強制破却処分を発令した。しかも「破却のための全費用は教団財政から支出せよとの条件である。当局は最初から土地建物ばかりか教団財産一切を捨て値同然に処分する方針を立てていた。売り叩くことによって大本を経済的に困窮させ、公判の弁護費用を捻出させまいとする策略である。

いのちを張ってすみが守ろうとし、王仁三郎が「いかなることありとも右三カ所(綾部・亀岡・穴太)の土地は一坪たりとも売却いたさぬ覚悟・・・」と獄中から切々たる葉書を寄せていた神苑はどうなったであろうか。綾部の二万五千百八十五坪は三千六百七十六円二十二銭(坪あたり十四銭)、亀岡の二万四千五百三十坪は二千二百十四銭(坪あたり九銭で強権をもって綾部・亀岡町に売却登記される。当時の地価は最低で亀岡坪あたり十二、三円、綾部二十円ぐらいであったから百分の一にも及ばぬ法外な値であった。

三月三十日、有留弘泰が五条署で自殺未遂。

四月中旬、福島県白河市の神正彦(二十二歳)は白河署に留置され、本署から出張の特高課長の取調べを受けた。京都に連行された正彦の父・守は王仁三郎の信任あつかった。当局では、彼の自白をとる手段として病身の息子を拘引しはげしく糾問したのである。

深夜に至るも眠らせず、なぐるける、頭を下にして鼻や口に水をそそぐなどの拷問が一週間つづけられ病状は悪化するいっぽう。強度の神経衰弱におちいったが、医師の要請にも充分の手当を受けさせない。六月中旬とつぜん帰宅を許されるが。すでに正彦は半死半生。留置場で死なせては警察の落ち度になるから釈放したのである。「父に一目会いたい」と訴え続けたが、それさえかなえられず正彦は短い生涯を閉じる。

五月十一日、破却工事の第一槌は開祖出口なおの墓に加えられた。死して十八年後、みたび死者を鞭打つのである。柩は共同墓地にうつされ「衆人に頭を踏まさねは成仏できぬ大罪人、極悪人なり」という特高課長のさしずで、腹部のあたりに墓標が立てられる。

開祖を誰よりも敬慕してやまぬ直日は歌う。

死して猶 安からぬ祖母ふたたびも 逆賊の名に墓あばかれつ

吾が心臓 石の如くに脈うたず あばかれむとすも 祖母の墳墓は

惟神の道まっしぐらに歩みたる 祖母なり成仏は願ひたまはず

綾部・亀岡両本部と穴太の破却工事は、三万二百四円で清水組がうけおった。両本部の土地約五万坪の売却費用がわずか六千円に満たぬのに、その五倍強の破却費用を大本会計から支出させられるのだ。破却に要した日数二十六日、取締り総人員六千七百八十五人(一日平均二百六十三人)、破却従業員九千九百三十四人(一日平均三百八十二人)。石と鉄骨で造りあげたわずか十二坪の月宮殿の破壊には手こずった。なんと千五百発のダイナマイトを費消し二十一日間もかかってようやく成敗したのである。こわれないはずであった。月宮殿は宮城の型であり、皇居が御安泰なれと日をかけ、手をつくして築いた。「岐美が代は千代万代に動かざれと 石もて造りし月宮殿かな」と王仁三郎が祝って祭ったものを。

天声社在庫の八万四千冊の書籍類・祭壇・祭服・神旗・王仁三郎の書画・作陶などは綾部・亀岡の両神苑内のくぼ地に投げこまれて焼却され、一カ月余にわたってくすぶり続ける。同時に地方施設の破却も進められ、別院二十七、分社四十一、歌碑四十のすべてが痕跡をとどめぬまでに破壊される。日本海の孤島沓島や播州沖の神島の神祠までうちくだかれ、海中に捨てられた。

広々とした光照殿の優雅な暮らしから、五間だけの一軒家へ.王仁三郎の娘たち三家族総勢十二名の合宿で鼻がぶつかりそうな生活に変転したのである。幼い私にも、降って湧いた環境の激変は感じとれた。だいいち、まわりから男が消えたのである。大好きな祖父や父や伯父やいつもまわりにいた人々が…。その理由を誰かれかまわず聞き歩く。しつこくなると、しまいに返事もじゃけんになる。いつか私は無口になった。

はるかな天恩郷のあたりからはくる日もくる日も腹の底をふるわすような爆発音が響きわたっていたし、黒煙が空をおおっていた。あの下にあるのが、本当に私の生まれたあの家だろうか。いま思えば、あれは月宮殿破壊のダイナマイト千五百発の炸裂音であり、霊界物語はじめ祖父の一生をかけた焚書の煙であったのだ。その頃、春日坂(駅から天恩郷の東側を通る坂道)を通りかかってこの破壊ぶりを目撃した一信者が、「ああもったいない」と思わずつぶやいたばかりに留置場に投げこまれ、竹刀でたたきのめされ、翌日釈放されたという。その噂が母たちをおびえさせていた。

地方での国家権力の暴圧ぶりもすさまじかった。六月、福島県三春町の信者加藤利七は三春署に検挙された。松本特高課長らの自白の強要をはねつけると「きかぬなら体できこう」と警部ら四人がかりで押えつけ、大きなやかんの水を鼻、口にそそぎこんで息をとめる。水責めだけでも三回、人事不省におちいらせた。「このガキ、まだ白状せぬか」と今度は真夏というのに炭火をおこし、縛り上げた加藤の尻にまっ赤な焼け火箸をじゅっとあてる。焼けただれはれ上がった尻の激痛に苦悶するのを、なめた態度だとしてまたなぐる。確かに地獄はこの世にあった。人は天皇の名さえかぶれば公然と鬼になれるのだ。「天皇と神とどちらがえらい」と鬼たちは詰めよる。「さあ…」と迷えば鉄拳がとぶ。「天皇」といえば「うそつけ」で自白するまで拷問される。「神さまです」と言ってしまえば、それこそ帝国日本の現人神天皇に対する恐ろしい〞不敬″ の証拠となって、わが身ばかりか、王仁三郎を大本を打つことになろう。どちらにしても死ぬよりつらい゛踏絵゛ であつた。虫の息となって帰った加藤は余病を併発、間もなくこの世を去る。

死にたしと吐息もらせばをさな子は 死ぬなといひて膝によりくる

いつひかれ行くべき吾か幼らと 春日の庭に刻をしみつつ

この頃の直日の歌であるが、おなじく亀岡の母たちの心境でもあったろう。まもなくそれは現実となり、検束の手は残された出口家の女たちもひいていく。六月十七日、まず私の母八重野(王仁三郎三女)が京都の川端署に護送され、ついで中立売署に一カ月近く留置される。

六月二十二日、伯母梅野(王仁三郎二女)は亀岡署、ついで京都の五条署に移される. 一カ月近くの獄中暮らしに痩せおとろえてはいたが、梅野の美しさは署内の関係者の間でも話題であったらしい。何を開かれても「さあ--さあ--」とうつむくばかりの梅野であったが、取調べが出口なおにふれるや否やきっと面を上げて「開祖さまのなさったことに間違いはありません」… 何が何でもとうとうそれ一つで通してしまった。そのことが写真入りで報道されると、梅野の長女操は子供心に誇らしくて切り抜いて額に入れかざったという。

六月二十九日、臨月に近い身重の直日が十日間にわたって綾部署に留置される。「お前の父母および主人亡き後は子供らを日本国民として恥ずかしくないように育てよ」 取調官の威猛高なこの言葉は直目の胸を深くえぐった。そのうえ綾部署特高課長の下書きした始末書を、強制的に写させられる。「不逞不敬の大反逆思想ヲ抱イテオリマシタニモカカハラズ、此度寛大ナル…今後マスマス謹慎イタシマシテ日本国民トシテノ…」

煮たぎる直日の胸の内は歌となってほとばしり出ずにはいられない。

かくのみの 陥穿ありとも知らずして 正は邪に勝つものと思ひし

なみだ流れて やまざりにけりゆるされて 帰るほどうのつゆの日照りは

死の刑も 笑みてぞうけむ 黒白の けじめ正しくわかち給はば

まもなく直日は長男梓(のち京太郎と改名 元大本総長)を出産。拘留中の夫元男に手紙で知らせたが、なんの返事もなかった。

しかし、暴力だけが権力側のすべてではなかった。事件までに彼らは専任大本係をもうけて大本の膨大な刊行物いっさいの読破・検討をおえ、国体変革の理論を結びとして大成していたのだ。天地剖判から始まって天の岩戸開き、スサノオノ命の追放再臨。これは同じ古典を土台とする日本皇室の祖、アマテラス皇大神と王仁三郎に化生するスサノオノ命の対決にほかならない。救世主として綾部に現われたスサノオノ命が王仁三郎にかかって地上の統治権回復、現皇室を立替えて天皇に代わるのがみろくの世の目的であろうとの疑いであった。大本の若き知恵袋と目されていた父出口伊佐男と取調べで対決、まっ向から宗教論を闘わせたのが、京都府警きってのインテリ山崎英男である。激論をかさねるにしたがい、二人は立場をこえ互いに人間的共感を抱き合っていく。父はこの人からだけ、ただの一度も暴行や強圧を受けなかったという。事件ののちも終生二人は親交を通わせている。

「きをつよくひろく大きくこまやかに あたたかみのある人になりたき」 これは出口すみの歌であるが、すみそのままを現わしてもいた。長い未決の独房にいてもその人柄はつゆほども害われていない。

司法省から刑事局長一行の未決監視察があったときのこと。彼らは四、五人で廊下を渡りながら大本被告の監房をのぞいて行った。洗面も排便もそこですます畳一つと小さい板の間のすみの独房をのぞいたとき、思いもかけず向こうから声をかけられる。

「あんた、そんなところから眼ばかり出しておっても話ができしまへんで。まあここへはいって、ゆっくり一服おしやす」

彼らは思わずにっこり会釈を返して、あわててすみの独房を離れた。帰京した局長は、林逸郎弁護士に会ったときこう述懐した。

「このまえ関西で偉い人に会ってきたよ。大本の二代教主という女、あれは傑物だね」

出口すみが京都の五条署に初めて連行されたとき、「お前たち一族はどうせじたばたしても死刑はまぬがれんから、その覚悟で入っておれ」と警官にいわれた。けっしてこけおどしではない。治安維持法違反の最高刑は死刑。当局は「大本を地上から抹殺する」と豪語していたのだから。ある日、「これから裁判所の監房に護送するから急げ」と言われ、「これが末期の水だぞ」と一杯の水を与えられた。「ああそうか、私は死刑になりに行くのか。これまで調べてもまだわからず、いつまでもこんな所に入れられているより、そのほうがよいかも知れん。大声で万歳を唱えて、にこにこと笑って死んでやろう。わしは死んだら神さまが待ってられる身じゃし…」と思うとすみは心が勇んでならぬのだ。護送車に乗せられるその時のすみの笑顔は全国紙にいっせいに掲載された。 「阿呆やのう。わたしは死刑にされるつもりでいたのやが、子供が遠足にでも行くような嬉しそうな顔をして…」保釈出所後、この新聞写真を見せられたときのすみの感想である。

 冷たい警察畑の中に山崎英男が存在したように、鬼の特高の中にも忘れられない仏がいた。若い新米特高・銅銀松雄、 出口すみの取調官助手である。彼は郷里八幡浜に帰省したとき、偶然のことから大本の出口宇知暦が母校八幡商高を中退して大本教にとびこんだという佐賀伊佐男であることを知った。銅銀が寄宿舎時代に使用した古い机や洗面器は中退する佐賀の残していった名入りの物、だから一面識なくても親近感があった。任務にもどった朝、銅銀は、丸太町の検事局まで伊佐男を連行していく役を買って出、その道すがらの御所のベンチで後輩の名のりを上げる。手錠でつなぎ合った二人の手がいつか拍子をとり、どちらからともなく校歌が流れ出る。満開の御所の桜の下、父はほろほろ涙をこぼしたという。銅銀は特高として許されるぎりぎりまで人間のぬくもりを伝えてくれた。出口すみに彼女の好きな黒砂糖をそっと手渡したり、彼女を喜ばせようと残された家族の様子を見に亀岡を訪ねたり。いやそれどころか許されぬ途方もない所まで銅銀は踏みこんでしまう。夏のはじめの取調室でのこと。すみはこの甘い若い特高につい吊りこまれ、むぞうさに心をのぞかせる。「二代さん、いったい--何がいけないのですか」「そりゃ銅銀さん、これが…目ざめなあかん。これが改心せなあきませんのや」。これが…とすみは真顔で親指を立てていた。一瞬、惑乱したのは彼のほうであった。これ… とは何か。あらためて問いかえすまでもない。これとは゛天皇゛ であり、それこそ今国家が、特高仲間が、この一言の自供を得るために血まなこのそれが… こともあろうに二代教主のロをついて出たのである。「えらいこと言うたわ」… さすがにすみも動揺をかくせなかった。これが拷問であればどんなにむごくても耐え得たであろうに、人のよいすみは人のよい銅銀だから相手の職種すらはずみで忘れていたのであろう。せいいっぱい怖い顔をつくり、「落ちた」被告人を見る目になって彼は調書にその重大な一言を書きこんでいく。

 九月二十一日朝、最高幹部岩田久太郎(六十二歳)が獄死。 「脚気衝心のため病死」と診断書にはあるが、「むちうたば わが身やぶれんやぶれなば やまとをのこの血の色をみよ」の獄中歌が死因をはっきり示す。暮れ近くには松田政盛が拷問に抗議して中京刑務所で自殺をはかる。宮川剛は日赤病院に移されてまもなく死亡するが、遺体には隠しようもない拷問のあとが無惨に刻されていた。弾圧の嵐は吹きやむことなく、昭和十一年暮れまでに九百八十七人が検挙され、三百十八人が検事局に送られる。家宅捜索や物品の押収は全国の信者の家庭にまで及び、大本に関する物件は紙一片だに見逃さぬきびしさであった。この年の内に幹部六十一人が起訴、全員に治安維持法違反が適用され、併合罪として王仁三郎ら十一人が不敬罪、高木鉄男と桜井重雄はさらに新聞紙法違反が加わった。治安維持法は「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタ者」に死刑または無期懲役、 「情ヲ知リテ結社二加入シタル者」には二年以上の懲役を科するという民衆弾圧の悪法であり、共産主義運動取締りの目的で立法されたものである。これを宗教団体に適用することは、権力側の一方的拡大解釈であった。以後、治安維持法との苦しい闘いが続く。「公正な裁判」を唯一の望みにかけて、心ならずも警察の思いどおりの調書に屈した被告たちであったが、予審にのぞんで暴行以上の不殺の殺に遭っていた。自白を拒めば今度は拷問の代わりに放置が待っている。二カ月三カ月、そして二年半もの長い歳月が費やされるのだ。「お前が供述をひるがえせば全被告の審理をやり直す。二、三年はかかるなあ、年寄りは死ぬぞ」 王仁三郎を落としたのもその手であった。「たとい一生涯を予審におかれても真実を認めてもらうまでは動かぬ」決意も、廊下を手錠をかけられて梢然として曳かれてゆく一人の老被告をみかけたとき暗然として落涙し、多数の被告人の保釈を願いたさに涙をのんで署名捺印するのである。最高幹部の高木鉄男(台湾明治精糖元重役)は自分のノートに記した言葉「聖師には絶対、天子には批判的」「ほんもうじゃ倒さまの世に不敬罪」「東京に向かって出発、邪神の巣窟に人らんとす」が激しい拷問の種となっていた。高木は東大で小原法相と同期であったから、徳永検事正が特別に説得して「自白」をすすめたが聞き入れぬ。四年留置の末釈放されるが、無罪の二審判決を見ずに病死する。昭和十二年四月、亀岡小学校へ入学したその日から私の胸いっぱい、あれほどつまっていた「なぜ? どうして…」の答えがつぎつぎと向こうからぶつかってきた。お前のじいさん、ばあさんは何者で、どんな大それたことをしでかして、今はどこに。それが何を意味するのかいっぺんにはのみこめなかった。それまで私が事件について何一つ知らされていなかったことなど誰が信じよう。まわりの子供たちのほうがくわしく知っていた。彼らは大本や王仁三郎たちへの悪意に満ちた大人らの噂をそのまま吸いこみ、大人はその知識を新聞・雑誌・単行本・ラジオなどから仕入れてくる。それらの世論をたくみに操作するのは、大本を地上から抹殺せよと指揮する政府当局にはかならなかった。私の祖父王仁三郎は「国賊」「逆賊」「大山師」「妖怪」怪物」「詐欺師」「色魔」であった。世論操作のトリックの一例を示そう。事件直後、当局は新聞記者や有力者を招き、高天閣の王仁三郎の寝室を公開して写真をとらせている。敷きっぱなしの布団に並べた女の枕、これ見よがしに春画なぞが散らばっている。「おかしいぞ。王仁三郎は検挙の五日前に旅立っているのに」とつぶやく者もあった。当時、京都警察部写真班の一人で、亀岡・綾部の検挙および破却情況の写真撮影を担当した柴田澄男が、 「あれは写真をとるために外部から持ってきたもの」とのちに証言している。私のおぼえている限りの王仁三郎はいつも陽春のようなぬくみをただよわせて多くの人の中にいた。「聖ちゃま、聖ちゃま(聖師さま)」とまとわりつく私を力強い腕で抱き上げる。父よりも母よりもこの世の誰よりもいちばん好きな人であった。けれどもそれは幻であったのか。子供らには、ネズミをなぶり殺しにする猫の残酷さがあった。彼らは私を追いつめて、とことん私の耳に吹きこまずにはおかぬ。王仁三郎が天皇陛下に対してどんな恐ろしい企てをしたか。王仁三郎が女たちとどんな醜関係にあったか。丹波独特の卑猥な言葉が毒の吹矢となってハリネズミのように私の全身に突きささる。気がすむまで彼らは私をつねる、なぐる。わが体内に流れるいまわしい異端の血を私は知った。私だけは天皇の赤子であってはならない。

わが体内に流れるいまわしい異端の血を私は知った。私だけは天皇の赤子であってはならない。「王仁の子だ」「青びょうたんのへーかまし」 道を歩くと小さな子供までが石をぶつける。冷たい大人の目に射すくめられる。でもそれは当然だった。彼らは目を輝かせて国賊の子を征伐するのだ。それは胸ふくらむ正義であり愛国心のためと私にもわかる。

だから、だから私は走っては逃げない。恐ろしさに身を固くしてうつむき、ただ消え去りたいとあせるばかりだ。外でいじめられているなど、母や一族の誰かに知られるくらいなら死んだほうがましと私は思いつめていた。泣くとか訴えるなどの無邪気な子供らしさは一かけらも残さず失っていた。心の傷に耐えかねる夜は、私は土井家で眠る。なめてなめころがす母猫のような愛情に抱かれたかった。土井家とは東京帝大法学部出身の元検事土井靖都(やすくに)宅。土井は筆先に心うたれ大本に走り幹部となったが、今は未決に拘留中で逆に裁かれる身。清江夫人は母に代わって私を育てた人で、東大病院の看護婦長であった彼女の育児方針には、母といえども逆らえなかったらしい。清江は私の枕元に端座して、ひそかに隠し持つ『霊界物語』を読んでくれる。小さな私が理解できようはずもないのに、「あなたの魂がちゃんと聞いています」と言って、眠ったあとでもやめなかった。いつ夜半に目ざめても清江は膝もくずきず音読している。それがうれしくて私は神々の物語の中で安らかに眠る。

昭和十三年十月十四日、尚江(王仁三郎四女)の夫貞四郎叔父が病気療養のため保釈出所、一

族に初めて男が戻ってきたのだ。貞四郎は二代目東京会議所会頭中野武営の孫で、一高・東京帝大卒業の秀才。ボート部できたえた恵まれた長身と端正で理知的な面立ち、激しい正義感と情熱の持主であって、特にその歯切れのいい江戸弁に私はたまらなく魅かれていた。

昭和十一年夏、貞四郎は刑務所内で喀血し肺浸潤の診断で房中・絶対安静の状態に入る。

予審判事に問われてありのままの病状を答えると、「そりゃ君、入ってれば治るよ」と冷然と言い放たれた。血痰や高熱が出ても無理解な看守には「異常なし」と答えて二年、病状は悪化しきっていた。いたましく痩せ衰えた貞四郎をかかえ、三人の幼児を夫の肺病から守りつつ、尚江の必死の看病が始まる。

十三年十二月十三日、住之江(王仁三郎五女)の夫新衛が保釈出所してきて、農園の中は次

第に明るさを取戻した。新衛の父高橋喜叉は長年、地方法院の判事をつとめていたが、今は大本事件の弁護団に加わっている。

公判五十八回で被告五十七人の訊問がすみ、全員併合の審理に入ったのは昭和十四年四月

である。三年四カ月ぶりで、なつかしい王仁三郎・すみの笑顔にふれ、仲間たちとうなずきあう被告たちには無言の感動があふれていた。被告たちは予審調書は拷問による当局の作文であることを強く訴えた。これより先、林逸郎弁護人が、予審判事の松野孝太郎を告発。出口元男は弁護人の要請によって京大教授三浦百重の精神鑑定を受け、昭和十二年三月にはすでに拷問による「精神分裂症」と診断されたにもかかわらず、その後二年間、二十回にわたる元男の詞書が理路整然、錯乱のあともないのは、松野による公文書偽造行使であるというのだ。これは不起訴となったが、弁護団が攻勢に転じる貴重なきっかけとなり、神の摂理とすら受けとめられた。証人訊問には九人の警察官が法廷に出されて、拷問の事実をするどく追究、白々しく否認するばかりであとはだまりこくってしまう彼ちの態度に、被告たちはどんなに無念やるかたなかったであろう。その高橋警部の訊間中であった。出口すみが突如被告席からとび出し立ちはだかるや法廷中を震わせんばかりの大声を発した。「そちらは天皇陛下の番頭ではないかっ」 明らかに神がかり状態であった。裁判長は驚いて公判を中断し、王仁三郎がすみを鎮魂してようやく被告席におさめるという騒ぎとなった。

昭和十四年十月二十七日、直日の夫元男(四十一歳)が京大附属病院より帰ってきた。精神分裂症と鑑定されていた元男の言動は時に常軌を逸し、夜中にはだしでとび出し山野を彷徨する。新衛叔父や町在住の信者たちが、つねに身辺につきそわねばならなかった。私たち子供は、ただ遠くからこわごわ見るのみである。

元男は倉敷市に生まれ、岡山一中・六高をへて京都帝大に入ったが、大本を知って中退

、奉仕にとびこんだ。直日と結婚後はその鋭い霊覚、 ひょうひょうとした風貌、深い思索を自在に書きとめた文章・詩歌などで信者たちの敬慕と三代の世への希望を一身に集めた人であった。「うつろなる夫の魂誰にむかひ 吾が訴へむもとにかへせと」とうたう直日の心は切り裂かれんばかりであろう。穏やかな容態のある日、元男は昇風に筆を走らせる。

「はるかぜの吹きのはげしきうつそみを 見そなはすらんおからすの神」- 同じ屏風にしたためた直日の返歌 「吹きつのる 風のはげしきわがつまを あはれみたまへおからすの神」…

昭和十五年一月、阿部内閣が陸海軍の支持を失って総辞職し、代わって米内光政内閣が成立。この頃、信者の大山美子が京都の中京刑務所で王仁三郎と面会し、物価高を訴えた。

「…米もないのですよ」「そりゃあたりまえや。コメナイ(米内)内閣だから」「炭もないし…」「おすみ(出口すみ)をここに入れておくからだ。早くおすみを出せばよい」「今は闇ばかりで…」「闇の後には月(瑞月・王仁三郎のこと)が出る」「「いつ出ますか」「・・・」

昭和十四年(一九三四)三月・賃金統制令、十月・物価統制令であらゆる物価・賃金・家賃を九月十八日の水準で釘づけにする。昭和十五年四月には米・みそ・木炭・砂糖などの十品目に切符制採用、八月には東京中の食堂で米飯を出せず、代用食の名でおから・芋・小麦粉を使用する。昭和十六年四月には東京・大阪・名古屋・京都・横浜で米が一日二合三勺(三三〇グラム)の配給となり、十七年三月までに全国に拡大される。

昭和十五年二月、第一審の判決が下る。出口王仁三郎無期懲役、出口伊佐男十五年、井

上留五郎・東尾吉三郎・高木鉄男各十二年、出口すみ十年、出口貞四郎五年、出口新衛

四年の各懲役であった。弁護団はこの判決を不服として、即日控訴の申立てをする。

昭和十六年十二月八日未明、ハワイの真珠湾奇襲によって、日本帝国は太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入する。第二次大本事件勃発と六年をへだてて同日同時刻、不思議な暗号であった。