王仁三郎の出現

 話を前に戻そう。「この神を判けるみたまは東からあらわれるぞよ」の筆先を信じた出ロなおの三女福島ひさは、船井郡八木町の入口、大井川の清流をひいた虎天堰(とらてんね)に茶店を出して、山陰道を西へ下る旅人を待ち続けた。 それから三年目の明治三十一年旧六月、異様な風態の若い旅の男がこの茶店の床凡に腰をおろした。「どちらから…」とひさが問うと「東や」と指さし「どちらへ」と問えば「西へ 」と答える。そして「一日も早く西北の方をさして行け。お前のくるのを待っている人がある」との神のお告げで旅に出たと男は語った。 ひさは気負いこんでお筆先をとり出す。「綾部大望ができるによりて、まことの者を神が綱をかけておるから、魂をみがきて神の御用を聞いて下されよ。今では何もわからぬが、もう一年いたしたら結構がわかるぞよ」 ちょうど一年前の旧六月二十七日の日付けが入っている。ここから西北にあたる綾部で母出口なおが、自分にかかる神を見わけてもらうために東から来る人を待っていることをひさは告げた。これが、出口なおと旅の男・上田喜三郎(のちの出口王仁三郎)を結びつける出会いの機縁であった。 では艮の金神が鋼をかけて引き寄せた上田喜三郎とはいったいどんな生い立ちをしたのであろう。明治四年旧七月十二日、上田喜三郎は京都府南桑田郡曽我部村穴太の宮垣内(みやがいち)に茅屋(ぼうおく)は破るるに任せた貧農上田吉松の長男として生まれた。七代前の祖に円山応挙(本名上田主水(もんど))が出たと伝えられるが、 彼の豊かな芸術的天分はこの血によるのであろうか。 祖母宇能は言霊学の中興の祖といわれる中村孝道の家の出であり、言霊学の素養の一端を身につけていた。 当時この田舎には珍しい教養ある女性を妻にし得たのは、祖父吉松(父と同名)の代までは上田家にそれに見あう家柄と財産があったからだ。それを祖父吉松一代で見事になくした。先祖代々栄華に暮らしてきた深い罪障(めぐり)をとるためやとうそぶき、日夜賽(さい)をころがした結果であった。    全身の漆かぶれのため二年余り寝たきりとなった喜三郎は、数え十歳まで学校へ行けなかった。そのため、幼い喜三郎には祖母宇能の独特の教授法で言霊学の知識を傾け、注ぎ込まれた。 「水呑み百姓の倅にそんなけったいな学問などいるけえ」と父は宇能の情熱を笑ったが、喜三郎少年の記憶力と理解力はすぼらしく、一度聞けば、きちんと頭に整理され、しまいこまれた。 十三歳のとき担任の先生と論争したのが元で士族の彼に父を蔑まれ、ことごとにいじめられる。その先生に糞のついた竹竿を突き出し汚したことで喜三郎は退校処分になるが、士族と相討ち、先生もまた免職となった。さて、欠員となった教員の補充はどうなっだろうか。 校長の裁きで、退校したての生徒喜三郎が数日後にはもとの教室に代用教員として立つのである。これは当時としても稀有の出来ごとであった。しばらく豆先生を経験したのち下男奉公・小作労働・荷車引き・牛飼い・牧場経営など貧しくも波潤に富む道程を喜三郎はたどった。青春の燃焼である夜遊びも、いたずらも喧嘩出入りも、おこたらなかった。いくつかの恋にも命を張ってきた。そのうえ、労働のあい間には本を読む。むさぼるように古今の本を読みあさっては夜をあかす。旺盛な向学心の向くまま国学・漢学・獣医学などに没頭した。「本を読むひまがあったら百姓に励め。蛙の子は蛙や、学問などして親の雪隠(せっちん)に糞たれんようになったらどもならん」     父の口癖であったが、理屈でさからえばぶんなぐられるのがおちである。多感な青年喜三郎にはどうしてもこの世のしぐみが許せない。「宗教は慈悲博愛を鼓吹してもまだ現世を救うにいたらず、ただ死後の楽園を想像させ、心に慰めを与えているにすぎない。いったい土地といい、資本といい一切のものは人類全体を幸福に生活させるため天から与えられたものではあるまいか。それを地主や資本家がその利益を独占しているのであるが、それは何の理由があり誰がその権利をあたえたというのであろうか。 一方に一挙手一投足の労もなく歓楽と専横をほしいままにしている者があり、他方には無数の人々が飢えに苦しみ寒さにふるえているのはどうしたことか。これを黙視していいのであろうか」(『大本創世紀』) 明治三十七年に若かりし日を回想して、喜三郎は記している。幼少の頃から産土小幡神社への崇敬はことに深い喜三郎であったが、いやおうなく神霊の世界へ引寄せられたのは明治三十一年旧二月九日の深夜、… 芙蓉山(富士)に連れて行く… という神使にともなわれたまま意識をなくしている。 気がついたときは家から西南に半里、穴太の高熊山の岩窟に襦袢一枚の姿で端坐していた。 雨・雪・寒風にさらされ、岩上に無言で飲まず食わずの一週間。その現界的修業のあいまに身は岩上に坐したまま、魂は時空を超えて導かれ、幽界や精霊界・神界をくまなく凝視体験させられた。 この世はうつし世というように、現界と霊界は合わせ鏡の関係にあることを悟った喜三郎は、天地剖判からはるかな未来へわたる見聞によって、自分に与えられた重い使命を自覚する。 高熊山修業後の喜三郎は牧場経営を放棄して手さぐりで神人感合の法を研究し始めた。この乱れきった地上を立て直すには宇宙の大元霊たる神に向き合い、そこから発する光熱に清められて神人合一の境に達するしかない。神のカと合して神の手足となり、しもべとなって使命を果たそうと喜三郎は決心する。すでに諳(そら)んずるまで愛読した『古事記』に初見する仲哀天皇の条や、『日本書紀』の神功皇后の条を喜三郎は思い浮かべた。 中世は永く途絶えているが古代天皇はみずからこの帰神法を行ない、国家の大事を神慮によって決したのだ。清流にみそぎして身心を潔めた審神者(さにわ)(憑霊を審判しその正邪を見わける者)と神主(霊のかかる者)は、顕祭(形に現わして祝詞奏上)ののち、荒菰(こも)の上に向かいあう。神主が両掌を胸に組み合わせ鎮魂(遊離する魂を丹田に集め整える)、審神者が天然の石笛を吹いて神霊をいざない寄せる。感合があると審神者はその悪霊と厳しく問答のうえ正邪を判じる。邪神は追いのけ、正神からは多くを学んだ。喜三郎が審神者となり、村人を神主として模索の中からたどりついた幽斎修行であった。 四月末、喜三郎は静岡県安部郡不二見村の稲荷講社総本部に長沢雄楯(かつたて)を訪問した。長沢は講社の総理で神職をかね、国学者本田親徳(ちかあつ)のおしえをついで鎮魂帰神法をおこなっていた。独学の喜三郎と違い、いわばその道の先輩であった。翌五月にも再び訪ねて、喜三郎が神主となり、長沢翁の審神を受ける。 降神とともに喜三郎の体は坐したまま宙をとび、形も崩さず元に下りる。神霊が強くかかると自意識を失い、かすかにわが眉の動きを感じるのみ。昇神を願う審神者の二拍手。ふたたび体を切って(とび上がること)我に返る。男山八幡の巻属小松林命による高等の神がかりとこのとき鑑定されている。 けれど、喜三郎のまわり、故郷穴太ではそうはいかない。小百姓の倅に生まれたくせして人類救済などというドはずれた夢を抱き、生産を放棄してまで奇妙な拝み屋を始めたと批難する。天狗、ド狐、山子、飯綱(いいづな)使い…  身内や村人たちの、あるだけの悪罵が喜三郎に集中した。五人の弟妹たちはそれぞれ似つかわしい人生を終わるだろうが、喜三郎だけは違う。まるきり違う。その違いが許せないのだ。同じ鋳型にどうでも押しこめたいのだ。所詮、故郷には生きられない。孤独に耐えがたい身を伏して、夜更けの小幡神社に街づくと炎のような霊波が走った。… 西北さしてゆけ お前を待っている人がいる。…小松林命の声であった。喜三郎は故郷を捨て、自分を生かしてくれる地を求めて発った。虎天堰(とらてんいね)でひさと出会ったのはこのときである。 園部の人々にひきとめられて病人を癒したり霊学の普及につとめていた喜三郎が、そこから十余里の山坂をこえ綾部を訪ねたのは、明治三十一年(一八九八)十月八日のことである。  初対面の出口なおは、喜三郎のまだ子供じみた若さに目をみはる。これが艮の金神を見わける人とは思えなかった。それに喜三郎が稲荷講社に所属していると聞いて、お稲荷さんではと不安が先立っていた。 喜三郎もなおの高い品格には打たれながら、なおをとりまく無知な役員信者の露骨な反発に失望し、三日滞在しただけで綾部を去る。 それから四日めの筆先がなおを驚かせた。「おなおのそばへは正真(しょうまつ)のお方がおいであそばすから、来た人をそまつなあしらい致すではないぞよ。おなおはいたさねども足立どの(当時の役員)は男子のことであるし我も出るし、いまでは分からねども、もうすぐなにごとも分かるぞよ」続いて「あのおん方はこの方が引寄したのざぞよ」「この大もうなしぐみのいたしてあることを、世界に一人知りておると、言いきかしてあろうがな、・・・まことの人を酉と東にたてわけて、この金神がかかりて、ご用がさしてあるぞよ」 つぎつぎと筆先が喜三郎を求めて急いていた。三十二年七月、役員たちの妨害をふりきってなおはひそかに喜三郎の滞在する園部へ迎えの使者を出す。 時節がきたのだ。使者四方平蔵の一泊する間に、喜三郎は郷里穴太へ走る。産土の神の神勅を乞い、祖母と母に別れを告げて往復八里の夜道を舞い戻った。綾部への道中、桧山で四方平蔵は喜三郎によって天眼通を授けられている。いわば敵中にただ一人わけ入る喜三郎にとって平蔵は初めての味方となっていた。このときの筆先…。「鷹の巣の四方平蔵どの、四十一歳のおり、旧五月二十四日にお迎えにまいりたが、万劫末代名の残るまことにけっこうなお世話をいたしてくださりたぞよ-・・・平蔵どのお手柄」(旧六月十八日) 喜三郎が綾部入りした頃の大本は出口なおを中心にした筆先絶対の素朴な熱狂的集団であった。無学な彼らは筆先の真意を悟るより、文字どおりを真っ四角にしか受けとれない。「この世は暗がりであるぞよ」と筆先が下がるや白昼でも提灯をつけて歩き「みちのまん中をあゆみて下されよ」とあれば車道の中央をまかり通る。馬車がこようが神の権威にかけてゆずらず、相手がよけると「見たか神力を」とそり返る。 「いろは四十八文字で世を新つにいたすぞよ」と出れば、漢字横文字は何が何でも許せない。喜三郎愛読の書籍類は引き裂き踏みつける。そのうえ徹夜でひそかに書きためていた膨大な原稿ですら、山と積みあげて火を放ち、「外国の身魂を征伐した」と狂喜する。幾度血涙をのんだことか。「うめでひらいてまつでおさめる。たけは外国の守護」と出るや竹とみれば目の仇である。喜三郎は言霊で解し「開いて散りて実をむすぶ梅は教、松でおさめるは政治、竹は武や、神の教えを開いて政治(まつりごと)せよ。軍備(たけ)で押さえようとするのはがいこく、つまり国を害するやり方」と説くがそんな言葉は耳にはいらない。 「艮の金神は出口に筆先で世界のことを書かすぞよ。上田は筆先を説いて聞かせる御用。筆先ばかりでも細かいことがわからんぞよ。上田には霊学が授けてある。この筆先と霊学がわかりて世界は一度に見えすくようになるのざぞよ」と筆先は示すのに…。  信者たちは喜三郎のすぐれた霊力に驚嘆してもけっして暖かい目で迎えたわけではなやかった。質素端正この上ないなおの一挙手一投足こそがまさに大和魂の規範であり、それに対する好きすっぱう目にあまる喜三郎の行動はどうでも改心させねはすまぬ外国魂のやり方なのだ。厳寒の朝夕、一度たりとも水行をかかさず、きたるべき人類の危難を「大難を小難に、小難を無難に」と祈念するなお。そのあとに従って暁の水行を競う信者たち。 喜三郎はといえば「わしは蛙の生まれ代わりじゃないわい」とふとんをかぶって朝寝する。それでも水行を強いると「水より湯のほうがぬくうて体の垢もとれるわい」とうそぶき、首までつかって鼻唄をうたう。 どんな厳冬でもなおは小さな手あぶりにちょっと手をかざすだけ。喜三郎は衆目の中で股火鉢、「いろは四十八番目、艮(とど)めの尻むすびの言霊の活用を聞かしちゃる」と信者たちを手招き「うん」と力んで大砲一発、灰神楽(はいかぐら)を舞い上げる。       神前に正坐してなおが奏上し、一同がそれに和する長い長い祝詞の間、喜三郎はひれ伏したまま頭を上げぬ。何を祈っているかと思えば聞こえてくる高いびき。出口なおが善の型の象徴であるなら喜三郎は悪の型、神罰が当たらないのが不思議なくらいだ。 ところが筆先は「なおのお世継は末子(ばっし)のおすみどのであるぞよ。因縁ありて上田喜三郎どのは大もうなご用いたさすぞよ。このおん方をなおのカにいたすぞよ。」(明治三十二年旧六月六日)。さらに「出口の神と日の出の神とが三千世界の元になるのざぞよ。出口すみと上田どのがかわりをいたすお世継と相定まりたぞよ」(明示三十二年旧九月十六日) なおの末女すみは十七歳。底知れぬ野性の力を秘めた清らかな瞳と、恐れを知らぬ胆玉。五歳のときに父と死別し、七歳から転々と他家へ子守奉公。狂った姉を持ち神がかりの母と暮らした幼時、母と離れ、死をも願った苦しい少女期。それなのに何と無垢でおおらかなすみの明るさであろう。すみに恋いこがれる信者は多いのに、一方的に神定は天降る。 喜三郎とすみを大本の世継ぎに…人間心で逆らえぬと知りつつも母親に立ちかえるなおの心は複雑だった。神の意志がなおの意表をついて下るとき、何事も神にゆだねたなおはつねに己の我を押えてきた。 喜三郎の奔放さに、信者たちと同じ批判の目を向けなかったとはいえない。このあたりが天啓教と人造教の違いであろうか。明治三十三年正月元旦、神約のままに喜三郎はすみと結婚の式をあげ出口家入りを果たすのである。