物が先か心が先か

 神についてある程度語ったところで、もう一度、大本神話の含みもつ意味をふり返って考えたい。国祖は、天地の修理固成の主体に霊止(ひと)を以って任じたまうた。第一に地球全土に人を分布される。「生めよ繁殖よ、地に満てよ.之を服従せよ。叉海の魚と天空の鳥と地に動く所のすべての生物を治めよ」と、『旧約聖書』の創世記にもあるとおりである。第二には地上に満ちた人類に邪気を生じたため、神の意志を宿して理想世界を建設するべく天地の律法を定められる。律法とは内面的に<省みよ><恥じょ><悔い改めよ><天地を畏れよ><<正しく覚れよ>の五情の戒律であったが、これは神より賦与された直霊の働きのままに即したものである。しかし、これらの規律を守って泰平に治まった世は短かった。人類の体的欲望がしだいに省みる心を失って恥を忘れて争い、奪い合い、過ちを悔いず、許さず、長上に逆らい、嫉妬み、誹り、偽り、盗み、殺し合い…地上の乱れは顕の幽である地上神界に必ず写る。ついに万神は、律法を毫もゆるめぬ国祖を呪って天の大神に直訴し、艮に退隠せしめるに至った。ここまでの大本神話で疑問とするところは、なぜ天地の主宰神、全智全能であるべき国祖クニトコタチノ大神が悪神ごときによって艮の一隅に押し込められなければならなかったかという点であろう。それでは視野を転じて、これを己が身と考えたらどうであろうか。神なぞどこかの片隅に押しのけ忘れ去り、ついでに良心(直霊)の小うるさい干渉にも耳をふさいで、日々の生存競争のために営々と心を費やし、余力はただ己れと家族の快楽に捧げて足れりとする。人生をそれでよしとするなら、国祖などやっぱり沓島あたりに閉じこめて再現せぬよう、祈るほうが気楽である。しかしこういう思いが人類全般に広まれば、人体に宿るべき直霊(なおひ)はゆがみ、神の代わりに獣性を心の家主とする我利我利亡者が地上に満ちよう。こうなれば、いかに全能のスサノオノ命といえどもなす術もなく、ただ泣くほかはないではないか。キリスト教では人を゛罪の子゛と断じた。パウロもロマ書の中で、「我は罪人の首なり」と苦悶の叫びをあげている。古代聖人君子と呼ばれたほどの人でも、省みて内なる善と悪との矛盾対立に苦悩しない者はなかったであろう。それでも大本神は、人を「神の子・神の官」とし、「神の断片」であるとする。この世には絶対善もなければ絶対悪もない。善悪は時・処・位によって変わるのであり、〞善悪不二″〞善悪不離″ 〝善悪一 如″… 善の中にも悪があり、悪の中にも善がある。霊と体の結びによって人は善悪美醜あい交わり、活力を産むのである、と王仁三郎は説く。善悪・美醜・上下・明暗はすべて表裏一体、これはみろくの世になっても変わるまい。それでは神はいったい何をもって善となし、悪と審判けられるのであろうか。人は誰しも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)をあわせ持つ。霊能とは正義・純潔・博愛・犠牲などを求める最高の倫理的、審美的感情の清らかな源泉である。体能とは飲みたい・食いたい・着たい・眠りたいなどの体的欲望であり、それは放っておけば限りなく深まり、堕落・放縦・排他・虚栄・利己へとつながる。だから、霊能が善、体能が悪と決めつければ気はすみそうだが、どっこい、どちらも大元霊から分かれ出る相対的二大元質であって、一方を切り捨てるわけにはいかぬ。体欲を殺しては人は生きてゆけない。また、霊能をつみとっては人が人でなくなる。それでも二元を結んで生じるカが方向を定めて動こうとするときには、一方をわずかでも主とし、他方を従とせねばなるまい。たとえば右足・左足の価値に軽重の差はなくても、どちらかを先に踏み出さねは歩けないのと同様である。どちらを主に選んでリードするかがじつは善悪のわかれ道となろう。宇宙は霊界が主であり、現界を従としている。したがって人も霊能を主とし、体能を従とする霊主体従のあり方がスサノオノ命の神教であり、理想世界へと続く善の姿なのだ。しかしそのつり合いは主従あくまで五分と五分。それゆえ体八霊二から発する力はいかに強烈であっても物質偏重の悪の容物でしかあり得ないわけだ。霊六・体四と霊に片寄って現実世界を軽く見るのもまた悪となる。神と人、霊と体、善と悪、男と女の円満なるつり合いが真つり合う状態である。真つり合いを正しくとっていくのを政事(まつりごと)と、わが国では称してきた。政事はまた、祭事でもあるから、古来祭政一致を文明文化の理想としたのであった。こう考えてくると、大本神話の国祖隠退という表現には、新しい意味が感じられはしまいか。宇宙の成り立ちの始めにおいて厳正剛直一方の国祖の支配下では対立の生ずる余地もなく、鳴り鳴りて鳴りやまざる宇宙の活動力からは少しく不足であった。激しく波動する顕の顕、地上の物質文明の進歩発展をうながすためには、むしろ体主霊従を一時期まで黙認するしかない。幼児期、成長期の子供の発育を願うあまりに、あえてわがままを許す母親みたいなものではなかったか。つまり物質と精神とのつり合いがとれぬいびつな状態のまま、この世は一時期放置され、体の成育を待ちつつかげながらはらはら見守っている天地のありさまを寓意化し、'神話として表象されたものと思えてくる。『古事記』にも『日本書紀』にもクニトコタチノ神がこのように隠退された話は書かれてないが、意味深長であり、人類史の進展のさまを暗示するうえで優れた神話だと思う。前にも延べたように、わが国では古来゛八百万の神々゛ という言い方がなされてきた。これを神が八百万(複数の意志として)存在するというふうに受取られがちだったため西洋の宗教学から原始的な信仰の形ときめつけられてきた。この形が゛多神論゛ という呼び方で一括され' ゛一神論゛ の立場にたつキリスト教よりも次元の低い野蛮な宗教という見方に甘んじてきた.これはまったく認識不足である。幽の幽に在す唯一絶対の大元霊(宇宙意志)が、二元に現われ、産霊の言霊によって三、四、五、六、七、八、九、十(たり)、百(もも)、千(ち)、万(よろず)と万有生成化育をとげ'顕の顕の地上世界を産み成してゆく。八百万(多数)の神というのは、その千変万化に展開する、顕の幽界での活動力の一つ一つに付けた御言(命)名なのである。つまり、一つの宇宙意志が無数に分かれて活動するさまを表現したのであって、 一本の扇子をパッと開いたように多角的な広がりはもつけれども、閉じれば一つ、ただ一神あるのみである、一つのものが、いつまでも一つのままの姿でとどまっているなら、無数の展開による活動力など望めない。〞唯一絶対神″しか認めないのは、宇宙意思を縛りつけ、動きのとれないものにしてしまったキリスト教やユダヤ教、回教などの考え方だ。『ヨハネ伝』において「言(ことば)は神なりき」「成りたるもの一つとして之によらで成りたるはなし」と宇宙の根元を見抜きながらも、産霊(むすび)を知らず、霊なる一元を以って教えを説いたため、体と力との関係にまで飛躍発展できなかった。霊力体が三位一体となって働かなければ、いかに道を説いても神の御国はつくれぬ道理である。西洋の宗教学は神観において金縛り的唯一神信仰に優越を感じているから、いつまでも狭く固い考え方しかできないのではないか。神話的表現として、八百万の神々が律法を厳守するクニトコタチノ大神を艮に押し込めた…。というのはどう解釈したら適切なのであろうか。一神即多神の原理をあてはめるなら、国祖も万神も本来は宇宙意志の働きの現われなのであって゛善゛ とか゛悪゛ とか対比以前の状態であったろう。そのような静的な調和の世界の一方を破って動の方向に進化せしむるためには、あい反する対立を打出すのも止むを得ない。国祖の隠退(律法の空文化)という産みの苦しみをもって、人類に与えた自由意志に基き、地上体的の物質文化の修理固成を待たれたのだと考えれば、納得できるのではなかろうか。いわば同一線上に揃っていた両足が静止を破って前進を開始する状態なのだ。一方が前に出るために後方に残された足を艮の金神と見立てよう。これが何千年かかったか、…ともかくたいへん長い歳月が地上人類に流れたわけだ。そうして今や、前方に伸ばされた物質文明の足に重心がかかりきって、こんどは後足をさらに前方に移さねは破綻は必至とよろめきはじめている。そこで「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ…」の端的宣言となって精神文化の夜明けともいえる後方の足の前進が開始されたのであろう。だから、この『大本神論』を、'宗教団体としての大本のみに通用するものと狭く限定解釈してはならないと思う。体主霊従的文明から霊主体従的文化へと世界人類史上未曽有の価値観の大転換が予言されたのである。それを思うと゛大本゛ の思想の根底があまりにも世間に知られていないことが残念である。