浅野和三郎の役割

 丹波の一教団に過ぎなかった大本が、たちまち全国的な教団へと発展をとげるためには浅野和三郎のカがあずかって大きい。浅野和三郎は東京帝国大学英文科在学中から小泉八雲に学んで文学を志し、明治三十三年卒業とともに横須賀海軍機関学校の英語教官をつとめて十数年、かたわら英訳書も幾冊か出して英文学者としての業績を示し、また十年近い歳月をかけて打ち込んだ英和辞書の編第も終わりに近づいていた。美しく賢い妻多慶(たが)との間に三人の男の子も恵まれて、順風満帆の人生航路はようやく四十の坂をこしたところである。ところが大正四年春、三男の原因不明の難病をある女行者に治されて以来、学問や理知では割り切れぬ、考えたこともなかった世界があるのを知った。その年の暮れ、大本宣教の旅の途中の海軍予備機関中佐飯森正芳(まさよし)と横須賀で出会い、同行の出口なおの三女福島ひさを紹介されてからは、丹波綾部の大本に対する興味がどうしようもなくかきたてられていた。彼が大本を知り、やがて一家をあげて綾部へ移り住むまでの出来事をくわしく述べた浅野和三郎の著『出盧(しゅつろ)』から要点のみ抜こう。浅野が初めて大本を訪れたのは大正五年四月四日午後四時過ぎである。竜門館の王仁三郎の書斎・臥竜亭(がゅうてい)で、真鍮(しんちゅう)の大杉の火鉢を間に初対面の挨拶をする。「やあ、よう来やはった。こっちへおいでなはれ」荒い横縞のどてらに古色蒼然とした兵児(へこ)帯を巻きつけ、黒い豊かな長髪を櫛の目も入れずに背後へ散らし、顔半分をうめる髭の中からきょろんとした目で王仁三郎は客を見る。挨拶はそれですんだつもりらしく、敷島に火をつけて、くゆらし始めた。どう考えても浅野のもつ宗教家の概念とはなはだしく違う。落ちつかぬまま問わず語りに浅野は来意を告げ、これまでの経緯を述べた。ついでに胸にわだかまる疑問をつぎつぎと放つ。霊魂の実在・神の経綸・神諭の真意・その他、誰でもが持つような疑問…それに対する王仁三郎の返答ぶりはひょうひょうとしていて掴まえどころがなく、理知と常識と学問で固めた浅野には疑問の大部分が依然として疑問のままに残った。王仁三郎は浅野を小舟にのせて金竜海をみずから棹さしてめぐった。夕刻になって宿へ引き揚げようとすると食事を出される。「大本にはたいしたご馳走はありませんで」と言うとおり、膳の上にのっているのは二切れの沢庵と焼きするめ、ポロポロの冷たい麦飯のみ。やけに固いするめだった。王仁三郎はと見ると平然と飯をかきこんでいる。ついにあきらめて、二切れの沢庵の塩味を頼りに、湯漬けにしてのどに流しこんだ。食事が終わると゛'神島開き゛の章で述べたように王仁三郎は浅野を残しておいて畝傍山と橿原神宮参拝に綾部を出発する。その後は「何鹿(いかるが)一の美女」と王仁三郎がのろけたすみが現われて浅野の相手をする。すみの天真爛漫な人柄、一点の虚飾もない話しぶりに魅きこまれ、ついにすすめられるまま大本のごつごつの重い蒲団にくるまって寝ることになる。翌朝、浅野は教祖なおと対面する。このときの感動を『出盧』はこう述べている。「その八十一の老躯をつつめるものは、洗ひざらしの極めて粗末な綿服であった。が、その綿服のうちからどことも知れず放散する一脈の霊光! その雪をあざむける銀髪、その潤いの多い、しかし力ある眼光、針もて刺せば玉しょうやほとばしらんとするその清き肌の匂い…  自分は生来初めて、現実の穢土(えど)に清らかさ、麗はしさ、気高さの権化ともいひつべき肉体を見た、と思うた。生来未だかつて心の底の底に恭敬の念慮をもって首を下げたことの経験のない自分が、大本教祖により初めて<敬服>という言葉の其味を体験せしめられた」二時過ぎの汽車で浅野は綾部を発った。離れるに従って、教祖出口なおに会って点ぜられた胸の火は烈々と燃えしきってくる。八十余年の犠牲の生活で罪と汚れの痕跡すらとどめぬまでに洗い清められた清浄無垢の神人を、たしかにこの目で見た。…あんな田舎の無学なお婆さんの決心覚悟とくらべて、自分はこれまで何という汚らしい、さもしい、あさはかなことを考えていたのか。金銭に縛られ、名誉にとらわれ生命を惜しみ、地位に恋着する。これでは人間としてどこに取柄がある。まてまて、既往は悔んでも仕方がない。ひとつ心を入れ替えて大本教祖の驥尾にふして人類のために一肌ぬいでみようかしら。横須賀の自宅に帰ると妻が待ちかねたように綾部の様子を聞く。「うん、綾部は、なかなかするめの固い所だ」と思わず発した第一声に、われながらニンマリする。浅野の大本に対する興味は燃えるばかり、かといって勤めの身、夏休みまで綾部に行く自由はない。思いあまってついに一策を案じた。王仁三郎をなんとか横須賀に迎えよう。妻を使者として綾部に送ろう。妻・多慶が王仁三郎と同道、横須賀へ帰ってきたのは四月二十九日であった。浅野家の離れの書斎で、参綾以来ためにためた質問の矢をつぎつぎに放つ。王仁三郎の応答は実に適確であった。驚くばかり該博で、深遠で、つねに第一義的で、びしりと肺腑を突く。綾部で交わした不得要領の問答とくらべなぜこうも違うのだろう。そのうち、浅野はその理由を悟った。初めてのときは時間の不足ばかりか自分の質問があまりに貧弱であり、愚劣であり、幼稚であったので、王仁三郎の真価が発揮されなかった。撞木(しゅもく)が悪いので鐘が鳴らなかったのだ。王仁三郎の大釣鐘はつねに叩く者の力しだいで音色も変わる。水が方円の器に従って形を変えるように、百姓と話す場合はたちまち百姓と変じ、学者と話す場合は学者と化す。相手が何者であろうが、「王仁三郎という人は自分より少し偉い」ぐらいに思わせる。教祖・出口なおの人格の高潔さとすみの天真爛漫さに心打たれた浅野はあらためて王仁三郎の偉大さの一端にふれ、 「こりゃ途方もない化物だ」と心ひそかに舌を巻いた.王仁三郎は五月八日まで横須賀に滞在し、海軍機関学校長木佐木少将夫妻ほか、海軍将校や海軍文官らを相手に四方から振りかかる質問を明快にさばいていった。あげくに知識だけではなく、霊魂そのものを実験体得する法をとせまられ鎮魂帰神法の実習にかかった。人間には頭脳による支配以外に、もう一つ腹中を根城としての、まったく別個に独立した働きが存在し得ることを彼らもこの実習によって認めぬわけにはいかなかった。王仁三郎は、浅野に審神者としての資格を与え、鎮魂帰神の種を蒔いたなりで去った。浅野は手さぐりで、惨憤たる苦行にたち向かう。その間の喜びやら失敗、一方で嘲笑悪罵から忠言など、ことこまかに記録する。海軍機関学校教官の宮沢理学士は天言通、浅野の妻は鮮やかに天眼通が開けるはか、それぞれに霊的体験をかさねて神霊世界に踏み入るのであるが、脇道にそれるので省略する。興味のあるかたは拙著『大地の母』を参照されたい。待ちこがれた夏休みがやってきて、浅野は七月三十日より約一ヵ月綾部に滞在、直筆の筆先と取り組んだ。『大本神諭』は謎の集合体であった。浅く解くも深く読み取るも対する者の器量次第。日清・日露・欧州大戦・これに引き続く世界的大動乱、地震・雷・洪水・火の雨の襲来・飢饉・疫病・綾部が神都・日本の世界統一・三十年で世の切り替えなど。まず浅野の目を奪ったのがこれらの一連の予言警告であった。気の弱い者なら、これだけでノイローゼになりかねない。ところがどこをどう探してみても、それがいつ起こるか、いっさい明示されていないではないか。「出口に世界のことを、先にこういうことであると、気(け)もないうちに書かしておくなり・・・」とあるように、事件が現実に起こってから筆先を読むとあっと気がつく。明治二十五年から大正五年現在までの二十四年間をふり返ってみれば、筆先の予言と世界の現実はぴったり合致するではないか。…こりゃ大変だ。筆先に限って時期を明示してないのが偽神の偽予言ではない証拠なのだ。神人界の大改造を背負って立たれる神さまが自縄自縛的にその経綸・方法・順序等を告白されるはずがあろうか。これしきの予言ですら、避け得る限りは避けたいところを天下の人心のあまりの聞き分けのなさにやむを得ぬ警告となったに違いない。筆先一流の「ぞよ」で結んだ断定的教訓が頭に染み入るには、それでもかなりの抵抗があった。学問をした者の常としてことごとに疑問がおこり、批判がはさまる。…なにほど智恵や学がありても、人民ではわからんことであるぞよ。このしぐみわかりてはならず、わからねばならず--さっぱり学や智恵を捨ててしもうて、うまれ赤子の心にたちかえらんと見当がとれんむつかしいしぐみであるぞよ。いままでの腹のなかのごもく(ごみ)をさっぱり放り出してしまわんと'実地まことはわかりかけがいたさんぞよ。

 冗談じゃない、学問や知恵を捨ていとはずいぶん偏狭な野蛮神じゃないか。…外国はけものの世、強いものがちの悪魔ばかりの世であるぞよ。こうなると維新以来、欧米を先進国と崇めて万事の理想を他に求め列国の仲間入りに腐心している現代人として、ついていける感覚ではなかった。ことに英文学者たる自負を傷つけられておもしろくない。しゃくにさわって筆先を投げ出したまま、ごろりと横になる。そのうち、横須賀での鎮魂帰神の実習から得た物質世界の深奥に厳存する神霊世界に思いが至った。もし内なる霊魂を見ず、外側しか信じぬ物質主義を゛外国゛と解釈するなら、まさにけものの世である。

 紫の袈裟(けさ)、金ピカの大礼服、爵位官等だの、紅白粉だのがありがたくて、内側の霊性はどうでもよいのは外国ばかりか日本も変わらぬ。それをまざまざと浮き出して見せるのは天地間にただ一つの照魔鏡があるばかりだ。それが天授の神法・鎮魂帰神ではないか。夏休みも残り少なになった頃、浅野は決断する。後半生をして大本と運命を共にしよう。大本を知ってから約八カ月、脇目もふらず突き進んで、教えの門に辿りついた。困縁の身魂は大本に出会わない先から仕度をさせられており、さあとなったら不可抗力で丹波の山奥へ連れてこられてしまう。そんな神の綱に身をまかせる思いであった。帰宅早々浅野は海軍機関学校に辞職願いを出している。一身の利害得失を心配してその非常識さを攻める一族も彼の決意をまげることはできなかった。校長・教頭と熟談のすえ学年の終わりまで勤め、十二月から自由の身になることに決定した。十一月には浅野の後任が決まった。七月に東京帝大英文科を卒業したばかりの後輩芥川龍之介であった。月俸は六十円。芥川はこの年二月、第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表して夏目漱石の絶賛を受け、新進作家としての地位を確立していた。浅野は学年の終わりまで勤め上げ、後事を芥川に託して十七年間の横須賀の暮らしに終止符を打った。浅野一家が綾部に到着したのは十二月十一日早朝。着くや、引越しの雑事は妻に任せて、大本の浅野としての一刻の猶予もない活躍が始まる。王仁三郎の依頼で、大本の機関誌旬刊『敷島新報』は月刊『神霊界』と改題され、頁教も増えて大正六年一月一日、正月号から発刊された。巻頭には主筆編集長・浅野和三郎の「発刊の辞」が掲載されている。