沓島ごもり

 日露戦争について筆先で早くから予言があったことは前述のとおりだが、王仁三郎も一連の具体的な予言を示している。明治三十四年四月十八日、王仁三郎は駿河の稲荷講社に行き、長沢雄楯(かつたて)の審神者、王仁三郎の神主で鎮魂帰神をおこなった。その折のありさまがのちに長沢雄楯の談話として『神の国』誌上に発表されている。 明治三十四年四月頃だったと思います。日露戦争のおこる機運が濃厚となり、必ず早晩あるというところからこれを神がかりで決する必要が綾部でおこりました。それで出口さん(王仁三郎)が四方平蔵氏他一人と三人で私の宅へ来られ日露戦争が開戦になる時期について神示を乞うことになりました。 出口さんが神主になり私が審神者で神さまの御降臨を願った。その時おかかりになった神さまのおおせに「この年の八月におこるか…それが延びたら明治三十七年の二月になる。三十六年の七月頃からだんだん開戦の機運が濃くなりいよいよ翌年二月に始まる。戦いは連戦連勝であるがいかんなことには軍艦七隻が沈没をまぬがれない。それから平和克服は八年の九月になる」とのことでした。そこで私は「しからば日本の戦勝の結果として得る利益ほどのくらいか」とおうかがいしますと「支部の海岸のごく一部と朝鮮全部、樺太南部を日本が受ける」というお告げでした。約二時間にわたって種々お伺いしましたから露国の作戦計画から外交談判に至るまで詳細にお語り下さいました。その時におかかりのご神霊は、岩清水八幡宮にお仕え申すご神霊がおいでになったのであります。いまだかつて神がかりでこんな大戦争を数年前に予言し的確に中ったということはないのであります。 大本はかくの如き立派な大神がかりの歴史をもっているにも関わらず、これまでに出版された書のどれにも発表されていないということは残念なことです。私が生きた証人でございますから、後日機会があればもっともっと詳しく大神がかりの真相をぜひお話さして頂きたいと思います。(『神の国』昭和十年五月号掲載) また、王仁三郎は明治三十六年九月十日に小松林命の神がかりで次のいろは歌を作っている。 ねらう要所は対馬に津軽、馬関海峡その次に、舞鶴軍港岸和田の 間の軍備に目をつけて、地勢要害取り調べ、またも越前敦賀より尾張の半田に至るまで、国探(いぬ)を放ちて探索し、一挙に御国へ攻め寄せて、すべての活動中断し、日本を占領する企み、夢でも見てるか夷国人、日本神国の敷島の、神の身霊を知らないか、鰐のやうなる口開けて、只一呑みと思ふても、日本男子の魂は、胸につまりて呑めないぞ、行きも戻りもならないぞ。 綾部の錦の大本の、十里四方は宮の内、見事覚えが在るならば、沓島の沖まで来て見よれ、鋼鉄艦も潜艇も、丹後の海の埋め草に、一隻残さず揺り沈め、日本兵士の忠勇と、出口の守の御威徳で、艮大神現はれて、三千世界を立直す、首途の血祭り覚悟せよ。 らん暴極まる畜生(けもの)国、慾に眼光(まなこ)を曇らせて、我神国を屠(ほふ)らんと、日頃巧みし軍略は、旅順、大連、韓国に、計画外づれて馬鹿を見む。石炭兵糧軍資まで、用意しておけ旅順港に、 今に日本が貰ってやる。その返礼に日本刀、一度は切味見せてやる、覚悟召されよスラブども。 明治三十七年二月十日、日露戦争が始まると、大本の中はわき立った。大本には町より早く春がきた。役員信者たちの顔は三千世界の梅の花が一度にひらいたほどの晴れようだ。世間の嘲笑をあび、気狂いと呼ばれながら十年余りものあいだ叫び続けた予言がついに実現したのである。 「気(け)もないうちから知らせてあるぞよ」と筆先がくり返すとおりではないか。日露戦争からひき続き世界の大戦いへと移っていよいよ立替えがくる。さあ、いざという時に至れば艮の金神が現われて大神力をふるい世界をひっくり返すのだ。快哉を叫んではね廻る彼らを制しきれぬまま、王仁三郎の心は沈んでいた。日露戦争は来るべくして来た。避け得ぬ歴史的宿命と観じつつも、単純に喜ぶ気になどなれなかった。王仁三郎の戦争観はすでに前年(明治三十六年)の七月十九日から書きためていた『筆のしづく』の一節に吐露してあるとおりである。…艮の金神さまのお構いなさる松の世(立替え後に実現される理想世界。清浄でめでたい不変の世、松は待つの世の願望にもつながる)のやり方は兵士もいらぬ、戦争もなきよう天下太平におさまるようになさることでござる。軍備や戦争は地主や資本家を守るためのカにするので、世界少数の地主と資本家のために税をしぼりとられ、そのうえ兵にもとられて、大事の命を投げ出さねはならぬ。高みへ土持ちでこんなつまらぬことはないからこの世の立替えがあるのでござる。 今や世界の国々は軍備のために実に二百五十億弗の国債をおこして、その利息だけでも毎月三百万人以上の者を働かさねばならぬようになり、そればかりか幾百万の達者盛りの若者は絶えず兵に出て人殺しの業を習って、いらぬ無益の難難苦労を嘗めねはならず、どこの国も達者な者は皆選り抜いて兵に徴集して、田畑を耕作するものは皆白髪混じりの老人やら身体障害者、女子供ばかりであるが、実に憐れ至極な世の中ではないか。そのうえ万一戦争でも始まりた日には、幾億という金を使い幾万の命を放かして人民は痛い上にも痛い目に会うて、国は半潰れになり、何時までも撚りが戻らず、残るものは少しばかりの軍人の功名と山子師の銭儲けぐらいである。 アア世界にこれぐらい重い罪があろうか。これぐらいな禍があろうか。これがさっぱり畜生の世で強い者勝ちの悪魔の世界ではないか。こんな世をいつまでもこのままにしておいたらもうこの先は共食いをするより仕様がなくなるから、天からの命令で今度の二度目の世の立替えであるからなかなか大望なことの仕組みでござる。 明治三十八年一月一日、ついに旅順陥落。その戦果のかげには、ロシア軍の装備する優勢な火力によって日本兵の累々たる屍の山を築かねはならなかったが、戦局はますます熾烈であった。「足もとから鳥が立つぞよ」の筆先が実地にあらわれるのは今こそと大本の役員信者たちはかたずをのんで待っている。筆先に似せて王仁三郎が書いたものなどくそくらえである。「今の大本の役員信者は今度の戦争で世が根本から立替るように信じてあわてているなれど、世界中の修斎であるからそう着々とは行かんぞよ。今度の戦争は門口であるから、その覚悟でおらんと、後で小言を申したり、神に不足を申してせっかくの神徳を取外すことが出来いたすぞよ…」(明治三十七年旧七月十二日) 「こんど海の底にお住まいなされた乙姫どのが、陸の竜宮館へおあがりになる御用に出口なおが二人を連れてまいるのであるぞよ」(明治三十八年旧四月七日) 明治三十八年(一九〇五)五月十四日(旧四月十日)、神命を奉ずる出口なおは祈願のために沓島にこもった。露国の軍港ウラジオストックからこの舞鶴軍港沖の孤島まで、さえぎるものはただ岸を打つ激浪だけである。「竜宮海はこの沓島であるということを、こんどあらわせるのであるから、こんどの行はつらいなれど、この行をつとめてくれたら竜宮が開くのであるぞよ。この沓島に住まいをいたしておる元の世界をこしらえた、そのままでおる精霊体のある神が守護いたさねば、世界の人民がいつまでかかりて戦いをいたしても、人民はじりじり減るばかり。どちらの国もつぶれてしもうてなんにも効能ないことになるぞよ。出口なお七十歳、市太郎が二十三歳、六人めの伝吉が二十九歳。 明治三十八年の四月十日(旧暦)にまいりて岩にさしかけをいたすには、沓島のお山で枯木を拾うたり、木の枝をもろうて、難渋なことであれども、こんな御用は末代にもう二どはでけんけっこうな御用であるぞよ」(明治三十八年旧四月十六日) なじみの船頭田中岩吉と橋本六歳は出口なお、供の後野市太郎、大槻伝吉(なおの三男)の三人が沓島に上がったまま船を返すというので顔色を変えた。この島には大きな長いものがおるので昔から誰も恐れて近づかぬこと、島全体が巨大な岩だから水は一滴もなく洞穴は鰐の巣であるし、波の打ち上げるこんな岩の上では一夜も寝ることはできない… 。 けんめいな船員たちの説得にも笑ってなおは言う。「神さまの御用ですさかい、なにこわいことがありますやろ。二十日たったら迎えに来て下され。そのとき姿が見えなかったらもう二十日して迎えに来ておくれなされ」 二十日して姿が見えないとき…なおは何を考えていたのであろう。「沓島まで行ってくれたら、そのさきは知らん間に連れまいるから、なにも心配してくれなよ」の筆先のどおり、この先の竜宮へ、潮路をわけ入る覚悟であったのか。  船を返すと、なおは筆にすみをふくませ、力をこめて岩壁に神号を書きつける。岩のくぼみに油を注いで神火を灯した。しじゅう潮を打ち上げるやや円形な水たまりを天然の水行場に選んだ。寝所は水行場のすぐ上で、牛の背の形をして海中に突出した岩…そこしかなかった。三人が岩壁の陰にかさなり合うように横たわる。 へタに寝返りを打とうものなら、牛の背をすべりおちて海底に転落するばかりだ。当時さして信仰のなかった伝吉は、筆先にのせられてうかうか沓島までついてきたことを早くも悔いていた。一日に三度の水行と礼拝、あとは筆先を書くばかりのなおであった。 夜半でさえふと気づくと岩の上に端坐して月を仰ぎ星空に見入っている。その幽玄なばかりの姿はわが母とも思えず伝吉は空恐ろしかった。その横で安らかな寝息を立てている若い市太郎の安心立命、神への燃えるような憧れと信仰も伝吉にはないものである。水行と礼拝のほかは薪を集めて煖をとるぐらいが供の二人の日々の仕事であったが、飢えと渇きには勝てなかった。

 

 

  三人の携帯品は、半紙一〆(二千枚)・筆・墨・種油一升・灯心・火くち・火打ち金に三人分のござ・笠・茶わん・さじ、食糧としては煎り米二升・麦粉(はったい粉)二升・タナ米(俗にしわしわ米)二升・砂糖一斤半、水は竹筒(直径三寸五分・長さ一尺六寸)一杯、これだけが神の許したすべてなのだから。麦粉小さじ三杯、砂糖一杯を海水でねって塩味をつける。朝も昼も夜もこの先ずっとそれだけである。水は一日に二滴、掌に受けて大事になめる。雨を待ちこがれるのに意地悪く晴天がつづき、のどが焼けついて体中が塩辛くかさかさする。五日目の十九日、偶然、ふくらんではおちる岩間の水滴を発見、それが清水とわかって狂喜する。その後は毎日竹筒に受けて一杯ずつ飲むことができた。

 「沓島はおん水のないとこであるから、人民の住いはできんとこであるなれど、けっこうなお水を見つけて乙姫さまがここにあるということをお知らせなさりた。誠というものはけっこうであるぞよ。この世には、水と火がなくては、人民は一日もしのげんであろうがな」

 沓島での筆先の一節である。十九日夜、沓島へ行ったなり消息の知れぬ三人を案じて王仁三郎は本宮山に登り、石笛を吹きならした。神感があった。近日中に日本海海戦がありバルチック艦隊が全滅すること、沓島では若い二人が食物に窮していることを知った。翌二十日、王仁三郎は役員たちを招集してなおたち一行の窮状を語り「ムリにも連れ帰ってくる」と言った。しかし彼らは、なおの神業を妨害する小松林の舌としか受けとらず、またバルチック艦隊全滅の予言も信じない。

 「日本はいったんはどうにもならぬ窮状に追いこまれ神力にすがるしかない所まできて、大臣らが大本に頼みにくる。その改心ができたらいっぺんにぐれんとひっくり返して日本を助ける仕組みなのだから、その前にバルチック艦隊が全滅するわけはない」というのが彼らの独善的筆先解釈なのだから、王仁三郎の言葉を素直に受けとれないのだ。

 九日目(五月二十三日)の夕方、伝吉がたまりかねて「もう帰なしてもらいますわ」と言い出した。なおは憔悴しきった二人の姿を憐れに思い、「ほんに困った者たちを連れてきてしもうた、わたし一人なら十分の行をさしてもらうのじゃが、それでも神さまはほぼ御用もすんだよう言いなさるさかい二、三日したら帰なしてもらおなあ」と言う。と言っても舟はなし、人はなし、便りはできずどうやって?

「神さまにお願いするのや。本気で帰りたいなら心の底からお願いしてみな」

 なおの先達で祝詞が上げられた。祝詞の最中から暗雲が空にひろがり、たちまち大風雨になった。海は轟き逆巻いて島は鳴動する。いまや沓島は激浪にのまれて竜体と化し荒海を突っ走りはじめた…

 ひしと市太郎と抱き合いながら伝吉はそう思った。「ご苦労」となおの大声が風雨を引き裂いてとぶと、暗雲の中から光の筋が海上にそそぎ始めた。なおは泣いていた。なおの目には、ありありと竜宮の乙姫が海から上がるお姿が見えたのだ。

 なおは言う。「竜宮の乙姫さまは、泥海の昔ながらの恐ろしい黄金色の御竜体のままでおられるが、あまり見苦しいゆえ、美しい姫のお姿に変じてご挨拶にあらわれなさったのやで。日本を攻める異国の船がたくさん参ったからこれからお手伝いに参ると言うてじゃった」

 翌朝、人声がするので伝吉と市太郎は耳を疑いながら岩の端へ売り出ると、十余隻の船影が見える。沓島に棲む鯖(さば)鳥の卵をとりにきた漁船であった。漁師は「なおたちの姿を遠くから眺めた者がおり、沓島に露探(ロシアのスパイ)がいるとの噂が立ったため、海兵団は一時大騒ぎになったが、やがて綾部の金神さんとわかって地元紙に報道された」と語るのだった。その漁師の小舟に乗せられて翌五月二十五日、なお一行は舞鶴へ帰着したのである。

 なおが沓島を去って二日目の未明、哨(しょう)艦信濃丸は対馬東水道を北上するバルチック艦隊の大隊列を発見、敵艦見ゆとの第一報を大本営に発する。「(明治)三十三年六月八日に冠島参拝、七月八日に沓島開きに参りて、三十四年の (旧)四月十日に産水を投じに沓島へまいりた」(明治三十八年旧四月)

 右の筆先に示すように四年前の旧四月十日、新の五月二十七日、なおは沓島の釣鐘岩の上に立ち、元伊勢の神水を激浪逆巻く日本海海上に投じて叫んでいた。「この水、三年で世界へ回るぞよ。世界が動き出すぞよ」

 これも一つの型ではないか。… 数えるまでもなく三年目に日露戦争がおこった。日本海に神水を投じてから四年日の旧暦四月十日同日から沓島ごもりが始まり、新暦同日(五月二七日)、まさに四年後のこの日、日本海海上で日露の決戦がおこなわれる。皇国の興廃この一戦にあり。日本艦隊の圧勝はたしかに日本を露国から守ったのである。