水晶のお種

 どうやら読者を゛大本゛という迷宮に誘いこんでしまったようである。丹波の綾部という小さな田舎町のひとにぎりの人たちが、自分たちの手で゛三千世界の立替え立直し゛ ができると本気で信じこんでいる実態がすみによって描かれているが、「変性女子が改心したら世界がよくなる」とか「世界のかがみ」「戦いの型」などという言葉につまずいて、あるいは吹き出されたであろう。 ゛型゛ とは何か… 艮の金神はいったい何を考えているのであろう。「大本は世界のかがみ」と筆先はくり返し明示する。かがみという言葉には、二つの解釈ができよう。物の像を映す意味の受動的な゛鏡゛ と手本・模範・ひな型を出す能動的な゛鑑゛である。「この世界が乱れてこういうことになりておるということも大本にして見せてあるぞよ。なにもわかりてくるぞよ」(明治三十四年…十二月十九日)…これは世界の乱れを大本に映すパッシブな鏡である。「世界へ善と悪とのかがみを出す大本であるぞよ。いままでは日本だけのことでありたが、これからは三千世界のかがみになる大本といたすぞよ」(明治三十二年旧九月十九日) もう一つは、大本の中に雛型を作り、それを日本へ世界へと波及させるアクティブな゛鑑゛ だ。このアクティブ゛鑑゛、すなわち゛型゛は゛予言゛と強く関連する。 予言が言葉で示す前触れとすれば、゛型゛ は形で示す予告であろうか。一種のモデル・ケースあるいはサンプルとして゛型゛ はまず最初に大本に仕組まれる。予言が具体的な組織や人間関係のかたちのうえに雛型として現われる信仰…これを゛型の思想゛ と称して大本では重視する。 逆に言えば、地球上の未来の動向の型は日本に起こり、その日本の出来事は、さきがけてまず゛大本゛ に起こる。つまり世界に起こる事態はまっさきに゛大本゛に予兆されるという思想である。大本という池に投じられる一石はやがて世界の岸へと波紋をひろげる。大きな桝の中にひとまわり小さなのが、さらにまた小さなのが・・・というふうな玩具があるがそんなものであろうか。 二、三、型の実例を示そう。明治三十六、七年代、立替えせまるを信じる人たちがぞくぞくと綾部に集まり、大きな藁葺(わらぶ)きの家に何家族も同居し、共同炊事を始めた。立替えの時期待ち、いわば非常時であるからまともな職業につかず、日傭いや内職などをして日銭を得、それで筆先の紙を買った。米の節約のためドングリから豆の薬、食べられる草なら何でもかゆに入れた。かゆといっても菜をつまみ上げると、悲しげにご飯粒がパラパラとついてくるくらいのもの…。「必ずこんな時代がくる」となおは言っていたが、戦前・戦中派の人ならばこれに似た経験を皆お持ちであろう。 明治四十一年(一九〇八) 三月二十四日、のちに大本の大幹部になる湯浅仁斎が初めて綾部を訪れたとき、なおは彼のたっつけ姿に目をとめてにっこりした。「竜宮の眷族(けんぞく)さんがはいていなさったのはこれやったでよ。袴でもなし、もも引でもなし、このお姿で、海からぞろぞろ上がってこられましたのや」 後日談になるが、湯浅仁斎のたっつけ姿を大本の男女がきそって真似だし、その風俗を湯浅の郷里宇津の里(当時、京都府北桑田郡宇津村)から綾部の大本へ移した形になった。やがて参拝する全国の信者たちが地方へ持ちかえる。昭和の年代になって゛たっつけ゛は゛もんぺ゛と呼ばれ、戦時中津々浦々で見られるようになる。 もちろんこの程度の実例なら偶然でかたづけられよう。どうでも信じざるを得ぬ型が、やがて日本と大本の間に続々符節を合わせて出てくるのだが、これは本書の後半でお目にかけよう。 ゛型゛の信仰を絶対と受けとめる信者たちであるから、次の筆先にもまた忠実である。 「大本にありたことは箸のこけたことまでつけとめておいて下されよ」「月の形の簾(みす)の中、日に日に変わる大本のようす、つけとめておいてくれいと申してあるが…」 当時の『大本日記』を見ると、「直日さま。またこんにちも、おはずしものありたまう」などとあり、何のことかに思い至って私はふき出した。たあいない夫婦げんかから、幼い直日の粗相までつけとめねば気がすまぬのであろう。 直日(大本三代教主)は、王仁三郎の長女で、明治三十五年三月七日に生まれた。筆先には直日をこの世の゛水晶の種゛にすると出ていたので、役員信者の目はことさら直日にそそがれていた。      直日誕生の秋、役場から種痘の通知がきた。 「おすみや、この子には疱瘡は植えさせられませんで」「お母さん無理ですわな。うちが植えさそまいと思うても役場がむりやり植えさせますわな」 なおはきっとなった。「水晶のお種を、つらぬかねばならぬさかい、直日の血をまぜこぜにはできぬと神さまが言われますのじゃ」 がんとして拒否するなおは、説得にきた巡査まで怒らせて追い帰す始末。すみは母に内密に箪笥(たんす)を空にして二十銭を工面し、罰金をはらった。それからの毎年、春秋この問題には頭を痛めねばならない。疱瘡(天然痘)が最初に日本に入ったのは天平七年、新羅から伝来してその後、大小の流行をくり返し多数の死者を出した。慶応二年禁裏を侵して、ついに孝明天皇のお命を奪う(毒殺説も根強く残るが<刺殺説あり>)。明治天皇紀第一によれば、明治天皇は御年四歳(安政三年)で牛痘をはばかり、ひとたび女児に施したのちひそかにこれを植えられたとある。 種痘を義務づけ、罰則を決めたのは明治九年である。王仁三郎夫婦がこっそり罰金を支払っていると知った役員たちは警察署へ押しかけ、強談判を始める。銭が惜しいのでも種痘が悪いというのでもない。この濁りきった世界にただ一粒授けられた水晶の種、まざり気なしのあの子だけは牛の種を植えてはならない。それを植えないからといって、あやまりの銭を出すことは、外国に負けて頭を下げた型になる。日本のために断じてそれはできない。返してもらうまではここを動かぬと駄々をこねる。 警察で返さぬため、役場へ、さらに福知山の検事局まで押しかけて「法律を改めよ」と言い出した。手古摺(てこず)った検事局では「軍隊をさし向けて大本を叩き潰すがよいか」とおどかせば、日頃おとなしい者までがむきになって力み返る。「神カと軍隊の力くらべをしょうわい。大砲なと向けるがよい」 直日が四年生になった春、この間題はようやく片づいた。カソリックの信者である吉川医師の説得によって微量のなおの血がとられ、その血を直日のふくらはぎに植えるという真似ごとだけの種痘で直日は解放された。 大本の機関誌『敷島新報』は大正七年一月号から『神霊界』と改題、それをチャンスに十銭の誌代を十二銭に値上げした。同じ年の十二月一日、煙草の゛敷島゛が値上げする。 ある役員が王仁三郎に怪気焔をあげる。「今年の初めに敷島新報が改題して十銭から十二銭に…ところが見なされ、今年の終わりにはなんと、煙草の敷島が十銭から十二銭にあがるやないか…。こわいもんですなあ、大本の型は。しかし遺憾なのは敷島煙草の名称が変わらんことです。なぜ゛神霊煙草゛と改称されんか、それが分からん」 王仁三郎、これには二の句が告げなかった。 明治三十七、八年に至っても火水の戦いはまだ熾烈であった。善悪ともにうつる゛世の鏡゛…大本の、とりわけ悪神の御用と筆先に出る王仁三郎の言うことを為すことはそのまま人類の事・不幸にひびいてくると信者たちは思いつめる。だから゛天の岩戸閉め゛の罪を負うスサノオノ命と、その分霊小松林命を一刻も早く改心させることが、世の立替えの第一の御用と彼らは目の色を変えてせまるのである。なにせこんな手近に、善の型を示す役割がぶら下がっているのだから。 王仁三郎を見ればケダモノあつかいで、しまいには箒で叩く、塩をまく、痰唾(たんつば)を吐きかける。たまりかねて逃げ出し京、伏見、丹波、丹後へと宣教に出れば、先まわりして邪魔をする。仕事も何も打ち捨て手弁当つくって山坂を越えどこどこまでもしつこくついてくるのだから、まことにご苦労千万。 善意で純粋で、無私なマコト一筋の使命感に燃える彼らを、王仁三郎とて憎みきれない。そのうえなかなかどうして王仁三郎もしぶといのだ。腹の虫のいどころが悪けりゃ筆先を量産するなおを称して゛紙食い虫゛ など憎まれ口をたたく。小松林と王仁三郎、もうどっちがどっちか分からぬばかりに二つは一つにとけ合っていっかな離れそうもない。 この頃のなおと王仁三郎のやりとりをそのまま写した筆先の一部を抜粋しておこう。(( )内はなお、( )内は王仁三郎の言葉)  <八月九月がさかりになる>と申せば、(明治何年の八月九月か、それがわからんような神のしらせはあてにならぬ、出口に悪神がうつりて肉体をもてあそびしておるのであろう)と申して変性女子(王仁三郎)が出口なおをせめるなれどそれはわれの心で考えて下されよ。<神はかんじんのことは今の今まで申されんから>と申せばまた反対いたして(出口にうつりておる神は神カのないやくざ神に達いない。出放題の無茶苦茶ばかり申すばか神であるから相手にあほらしてなれん)と申し、えらいご不足であれど、三千年もかかりて苦労いたした経綸であるから、なにほど大事な身魂にでも今の今まで打ち明けられんぞよ。世界から出てくることと筆先とわれのおこないとをちっと考えてみよれ。自然(ぬしがで)にわかりてくるぞよ。<どこに何があろうやら知れんから改心して下され>と筆先で気をつけてやれば、また反対いたして (そんなたよりない知らせなら、神でのうても誰でもする。悪いことは言いあてるものだ)と申してまた攻めるなり <戦争と天災とで世をかえして世界の人民を改心させるぞよ>と申して知らせれば、(戦争や天災はいつの世でもこれまでたくさんありたから、別に艮の金神の筆先を見いでもよい。こんな筆先は気にいらぬから引き裂いてしまえ)と申すなり、 (それほど何もかもわかるえらい神なら、なぜ三千年もの長いあいだ、艮のすみに押しこめられてじっとしておりたのざ。力のない神ざ)と申して変性女子の身魂が反対いたしたり、 (もっと上の偉い人にうつりて知らせたらよかりそうなものざないか。こんな田舎の婆さんをたよりにいたさんでも神ならそれくらいのことはできそうなものざないか。三千世界が一日に見えるまことの神なら綾部や福知山のことばかり申さずにもっと他のことを書いてみせたら改心する者がでけるなれど、よそのことをよう書かんような神は世間のせまい神であろう)と申して力いっぱい反対いたすが、筆先の読みようが足らんからであるぞよ」  王仁三郎の筆先批判は当時のインテリの意見を代弁しているかに見える。さらに筆先は続く。「変性女子はこうして反対いたしもって錦の機(後述)を織るのであるから、神は何事も承知いたしておれど、あまり長らく反対いたして改心がでけぬと世界中の苦しみが長いから、もう時節であるから早く改心して下さらんと困るから、神がくどう出口なおがいやがりても気をつけさすぞよ」(明治三十七年八月三日) 同じ頃、王仁三郎がひそかに出口なおを批判して書き綴ったものが『道の大本』の一節として残っている。  丹波の国のある所に曲津神の集まる巣窟ありて、あまたの悪魔あらわれ、偽救世主をあらわして世界を乱し破らんとす…。曲津神は常識を欠きたる頑迷固陋の、しかも朴直なる婦人の心にひそみ常に偽善をもち人をたぶらかすをもって唯一の方法手段となしつつあり・・・.王仁はのがれぬ仲ゆえ(親子関係をさす)どうぞしてその迷いの目をさましてくれんと思えども、かれすでに心の中より曲神に化かされておるゆえに救うの道なし。ああ…されども、瑞の霊魂の宮居たる審神者の王仁、ここにいよいよ正義の矛をとりあらわれきたれば、いかでか曲津神をこの世にはびこらせおかんや…大本の二大教祖とされる出口なおと王仁三郎が互いに相手にかかる神を悪神と判じて改心をせまり合うなど、他教団にないおもしろさではないか。それがまた神の経綸というに及んではまことに皮肉、使われる者こそ迷惑至極といわねばならない。 役員信者の大半は悪神の型・王仁三郎を正義の名でいじめておればこと足りるであろぅが、複雑な立場にある妻すみはどうしていたであろうか。すみは帰神の母と夫の板ばさみに耐え、狂気じみた役員信者に囲まれてこの竜門館に幼い二人の子を育てドン底生活を守らねはならなかった。それでもそのおおらかな天性はそこなわれずそれが王仁三郎にとってどれだけ救いであったことか。ある日など役員信者の無理解に日頃こらえた口惜しさがかさなって王仁三郎はカンシャク玉を破裂させる。「お前らに飼い殺しにされてたまるかい。わしは養子じゃ。裸で帰んでやるわい。その代わり直日はわしの子や、つれて行くぞ」 長女の直日を裸の背にくくりつけ、泣いてしがみつく役員どもを蹴りとばして形相すさまじく土間にとびおりる。はだしのすみが入口に立ちふさがった.すみはひらりと白い湯文字の裾を返し、高だかとまくり上げてにこっと笑む。毒気を抜かれて立ちすくむ王仁三郎。人目にさらした叢(くさむら)のあたりを軽く叩いてすみは言った。「先生、ここに未練はござへんかい」 照れ笑いして王仁三郎、思い止まったのは言うまでもない。「アメノウズメみたいなやっちゃで、おすみにはかなわんわい」  後年の彼、妻に頭が上がらぬときなどこうぼやく。そんなすみであっても疲れはて発作的に死のうとして畳針をのみこんだこともある。「さあ、どうなっとしておくれい。神さんがほんまに私を必要とするなら生かすやろ。どうでもよい神さんの仕組なら今すぐ楽にしておくれなはれ」…しかしこれは誰にも言わなかった。その夜、なおは手づくりの畑のさつま芋をふかして珍しくすみにすすめた。三日目のあけ方、くどに火をおこそうとしたすみは火吹竹を握ったまま脇腹の激痛に耐えかねて失心した。われに返ったとき、失禁した汚物の中から長い畳針を見つけ出した。血と粘液とそれにさつま芋の細く長い繊維がぐるぐるにからみついて、鋭い針の先をおおっていたという。「こんど岩戸を開くには海潮(会長・王仁三郎)は坤の金神と守護がかわりて、善一筋の道へ立ちかえりて神界ではでぐちおにさぶろうと名をいたすぞよ」(明治三十六年旧四月二十七日) 現界の戸籍上で上田喜三郎が出口家入りを果たすのは明治四十三年の暮れであるから、神界ではぐっと早く入籍したことになる。同じ音読みの音から鬼三郎、間もなくそれを訓読みして王仁三郎となった。 王仁三郎の守護神が坤の金神に変わったという役員信者の待ち兼ねた筆先である。しかし筆先は予言であって現実はまだまだきびしく、王仁三郎への迫害はつづくのだが… 。それでも相互にかかる火水の戦いは次第に治まっていった。この筆先の少しあと小松林命作の『いろは歌』の中にはこんなのがまじってくる。  すでに悪魔に取りひしがれて、危ふいところを差添の、誠ごゝろに染められて、捨た思案のあともどり、洋服脱いで、沓捨ててへ、草のカバソも投捨てて、昔の神代の人となりつらつら思ひ回らせば、出口の守のお知らせの、通りに汚れた世界じゃと、固く心を取り直し、只一筋の神の道、心も勇み気も開き、花咲く春にあう思ひ、こんな結構が又と世に 三千世界にあろうかと、初めて覚り大本に、大きな尻を末長く、綾の高天で猫と成る、オットどっこい神さまの、激しき威徳に照らされて、心の底のごもくたを、白状したが情ない、是が出口の王仁三郎。  王仁三郎がいつごろ心底から筆先を信じ、なおを認めるようになったかは不明である。だが、私は数(十)年前、大河小説『大地の母』の七巻゛火水の戟゛ を執筆中、この疑問にひっかかって幾度目かの取材に王亡三郎の弟・上田幸吉翁を穴太の宅へ訪ねた。翁はそのとき、埃とクモの巣だらけの古カバンを持ち出してきて、カビ臭い古証文やら手紙類をひろげたのだが、私はその中から王仁三郎が発信した巻紙の古い手紙を発見した。平仮名ばかりの女性的な筆跡である。 封筒が紛失していて発信の正確な日づけは不明だが、「せいにう(人造清乳会社)云々」の文面から推しはかって明治三十八年末頃の手紙ではないかと思う。 上田幸吉どのへまいる うしとらのこんじんさんのおふでさきわ(註・はをわと使うのは筆先の慣用)いちぶいちりんもちがわんことをわたしわきがついた。せいにうもあんまりふかいのぞみわないようなから、すへの百より今五十といふことをわすれぬようになされ侯。(中略)おまへさんも志っかりしてひとにばかにしられんようにきをつけなされ侯。一ぺんでぐちきょうそ(出口教祖)とやくいんへあつさみまいのてがみをおだしなされ侯。いろはばかりでかいておくりなされ侯。おふでさきのたいもうもじつちがだんだんでてくるゆへかいしんしてくだされ侯。くわしきことあまたあとから。  兄弟の中でただ一人兄の味方であり理解者でもあった幸吉には、王仁三郎も心の迷いを打ち明けていたのであろう。この弟宛てのかな文字こそ、長い年月の果てになおの神の審神を終えた何よりの実証ではないか。