晩年の秋山真之

 三千世界の立替え立直しの神約は大本に生命を吹きこみ、他教団との違いを際立たせる。これを忘れた大本ならば単なる一宗派に堕してしまい存在意義はうすれてしまう。しかしこの大予言はいわば両刃の剣であって、時として鋭く大本自身を傷つけもした。九十年近い大本の流れを振り返るとき、慢心や筆先の取違いからくる役員信徒の独走を制御しきれなかった苦い錯誤の歴史につきあたる。過去のあやまちを再びくり返さぬためにも、予言を独善的に解釈し盲信することの愚をくり返さぬためにも、あえてその恥部を書かねばならぬ。秋山真之海軍少将といえば神算鬼謀、天下無比とうたわれる海軍の名参謀だ。真之の兄であり日本騎兵の育ての親でもある秋山好古(よしふる)陸軍中将とともに、日清・日露の戦いで勇名を馳せた英雄である。「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす」例の日本海海戦における有名な電文であるが、三笠艦上の若手参謀がここまで起案すると、秋山はその末尾にさらさらとつけ加える。「本日(ほんひ)天気晴朗なれど波高し」画竜点晴のこの短い一句によって、 「戦局われに利あり」の判断を秋山は伝える。海峡に濃霧がかかり敵影を見逃すことを大本営は恐れていた。「天気晴朗なれど」で先ずその杞憂を打ち消し「波高し」では戦艦の乾舷(かんげん)が低まって、遠征途中で訓練不足のロシア艦隊の不利を語る。また「本日」を「ほんひ」と特殊な発音に直したのも秋山の発案で聞き違いを少なくするための海軍の慣用句となった。「舷々相摩(ま)す」という流行語も秋山の書いた戦況報告の一句だ。端的で格調高い彼の文章は秋山文学と呼ばれて後世に残った。日露戦争終結のとき東郷司令長官の名による「連合艦隊解散の辞」は、日本海軍の経典的役割をはたし、ルーズベルト米大統領も英訳して全アメリカ軍隊に配布したがこれも秋山の起草になる。これほどの俊才英傑が晩年゛大本゛にかかわったばかりに生涯の汚点を残すはめとなった。浅野和三郎の回顧録『出盧』につづく『冬寵(ふゆごもり)』と大本側の資料を基礎に重い筆をとろう。秋山真之を引き寄せたのは『この道』という大本の一小冊子であった。その内容の神霊問題が彼の興味を激しくそそった。なぜならば秋山には二度にわたる重大な霊的体験があったからだ。日露戦争の緒戦において日本の連合艦隊はロシア艦隊に大打撃を与えたが、それでもウラジオストック艦隊は健在であり、津軽海峡から日本海沿岸を脅かして砲撃を続けた。撃滅しようにも相手は出没自在、敵影すら捕捉できぬ。国民感情は沸騰し敵艦撃滅の任にあたる上村艦隊に非難の声さえ浴びせ始めた。日本海軍の主力東郷艦隊は旅順封鎖の任にあたって動けず、敵艦隊のほしいままの跳梁を無線で受けつつ歯がみするばかり。彼らは日本海を通過してそのままウラジオへ引き揚げるか、または日本の東海岸に進み津軽海峡か宗谷海峡を抜けて帰航するかである。さて、上村艦隊をいずれに向かわせるか… .東郷艦隊の参謀秋山中佐(当時)は二者択一の決断に迫られていた。この時点での決断は日露の勝敗の別れ道ともなろう。夜もすがら、考えに考え悩みぬいて、秋山は力尽きふとまどろんだ。瞬間、閉じたはずの瞼の裏が明るく広がりだし、青い海原の中に、日本東海岸の全景が浮かび上がった。向こうの果てが津軽海峡と目をこらすと、三つの黒点が波を蹴立てて北進する。まさしくウラジオ艦隊のロシア、ルーリック、グロムポイではないか。敵の航路が秋山の眼裡に焼きついたとたん、何もかもかき消えて、ハッと秋山は目を開いた。夢か幻か…否。魂のおののくような感動のうちに秋山は悟った。…-神助だ、神はおわしますのだ。しかし彼は「敵艦の進路を霊夢で見せられた」と卒直に打ちあけかねてしまった。そんなことを言えば冷笑を買うばかりであろう。理性による判断として秋山は「ウラジオ艦隊が東海岸から津軽へ抜けるものと推定されるから、日本海を先まわりして津軽で迎撃すべき」と進言した。惜しいかな軍令部はこれを採用せず、上村艦隊をして太平洋に出動させた。このため敵艦隊はゆうゆう津軽海峡を通過しウラジオストックに入ってしまう。.それでも神助は再び秋山に下るのである。日本海海戦では、ウラジオ艦隊の前回より、いっそう日本の危機感は深まっていた。ロシアは強力なバルチック艦隊を第二艦隊として日本に送り、制海権を奪おうと意図した。迎え撃つ日本艦隊は根拠地を鎮海湾に置き敵の接近を待ちかまえるが、ここでも敵の進路の想定が重大となる。全艦の首脳部が旗艦゛三笠゛に集まり'幾度となく密議をこらした。前回の秋山の進言は容れられなかったが、実に的を射ぬいていたのだから今度の作戦はかかって秋山の頭脳に集中する。不眠の幾夜か、その責任の重さに疲れ果て、士官室にのがれて安楽椅子に身を投げた。五月二十四日の夜半である。気づくと、つぶった瞼の裏が明るくなり、深く果てしない海のうねりが浮かんできた。今度は対馬海峡だった。その全景の中に探るまでもなくバルチック艦隊がやってくるのが映った。その二列の陣容、艦数までつかんで、しめたっと思う瞬間、われに返る。頭は冴えかえっていた。あちらの出方が分かれば作戦はひらめく。七段構えの戦法ができ上がって今やおそしと敵を待つばかりとなった。五月二十七日の夜明け、ついに敵を肉眼に見て秋山は腹の底から勝利を確信した。敵の姿形が三日前に霊視したのと寸分の違いもなかった。ただ時間だけが予想と逆になった。海峡通過が昼となったので、作戦は昼夜を入れかえ第一段の艦隊決戦ですでに大勢を決した。現実には第三段作戦までで終わる大勝利となったが、戦報の筆を執るや、まず「天佑と神助によりて-・・・」と書き出さねばすまぬ秋山であった.大正五年当時、秋山は軍艦゛吾妻゛ にあって水雷戦隊の司令官をしていた。〝吾妻″ が舞鶴港に入港した機会に念願の大本訪問となったもの。この日は浅野が綾部へ移住して四日目の大正五年十二月十四日午後である。『神霊界』大正六年一月号の「大本通信」には「十二月中旬から月末にかけて舞鶴から来訪する海軍将校がほとんど連日に及んだ。真先が海軍少将秋山真之氏で出口・浅野両氏とほとんど半日にわたりて懇談した」とある。浅野と秋山はともに海軍部内にいながら初対面であったが、相手の名声だけは知り合っていた。浅野は秋山の第一印象を「高い湾曲した鼻、やや曲がった口元、鋭いしかし快活な眼光、全体に引きしまった風貌動作、だれが見ても只者でないだけはすぐ判かる。海軍士官気質という一種独得の型にははまっているが、しかしどこともなくその型を超越した秋山一流の特色も現われていて、妙に人を魅きつけるところがあった。たしかに僥倖で空名を馳せている人ではないと首肯された…」と書いている。秋山は前述の二度の霊的体験を打ちあけ、王仁三郎のほうは沓島での教祖の十日間の戦勝祈願と、五月二十三日夜の竜宮の乙姫の神示を語り聞かせる。例のバルチック艦隊の進路をまざまざと霊視させられたのがその明け方であったことを思い合わせて、至誠通神の確信をいっそう深める秋山であった。神霊問題についての核心を突いた質問に、王仁三郎は無駄なく短く答える。秋山は片はしからそれを呑んでいく。浅野は陶然と両者の問答に聞き惚れた。秋山四十九歳、王仁三郎四十六歳、浅野四十三歳、それぞれ三つ違いで、あと十日余で元旦を迎えれば数え一歳を加える。 秋山の参綾が発火点になり、大正五年十二月中旬から゛吾妻゛の出港の切迫した大正六年一月七日まで、大本内部は一時海軍村を形成した。彼らはいずれも元気旺盛な猛者ばかり、大雪もなんのその、大晦日も元日もお構いなくつめかけては霊学や筆先の講釈を聞き、たいてい十一時の終列車で舞鶴へ帰っていく。大半の者は希望して王仁三郎や浅野の鎮魂を受けていた。海軍士官の守護霊は概してわけなく発動し、猛烈でそのくせ淡泊だった。奇妙なことに天狗霊が多い。天狗なんて人聞きがわるいと当人が恥ずかしがろうが、おかまいなし。単純明快、審神者に名を問われるや即座に「天狗!」と大音声を張り上げて答えるのだから仕方ない。金竜殿では連日、珍無類の発動がかさなり合って話題にはことかかなかった。浅野の綾部入りによって大本は社会的に大きく前進したが、同時に内部も変化した。たとえば鎮魂帰神は、主として古い役員の四方平蔵が病人などに頼まれてやむを得ずする程度であった。教祖なおは低級霊のどたばた騒ぎをことに嫌ったし、大本に鎮魂帰神術を持ちこんだ王仁三郎にしてもその弊害面を心配して押えていた。しかし審神者を習いたてのその強烈な作用に目をみはる思いの浅野には、押えよというほうが無理であったろう。`浅野は書いている。「鎮魂の目的は、むろん霊魂の存在を証明するなどという安っぽいものではない。遊離放散しやすい霊魂を身体の中府に招集統一して、顕幽一致、神人合一の妙境に到達せしめ、宇宙の秘奥を探り、天地の大道を明かにするにあるのだが、この修行の第一歩に於て、副産物的に霊魂の存在ぐらいは分かってしまう。理屈で十年かかっても分からぬことが僅々一日か二日の実験で体得せしめ得る。一時も早く分からせようという誠意がこちらにあれば、つい億劫でも鎮魂ということになる。よくよく早いのになると、 一ぺんで憑依霊が発動する。当人の意識が明瞭で、ぜんぜん覚醒状態にあることだから文句はない。審神者のほうで説明するまでもなく、たちまち守護神説を承認する。理性が発達し常識があればあるほど悟ることも早い。どうしても神霊問題の研究はそこから出発せねばならぬ--」たしかに鎮魂帰神術は宣教の有力な手がかりではある。しかしそれを押さえようとする側にもまた充分な理由があるのだ。発動する霊が他愛なく無邪気なうちは確かにてっとり早い改心がのぞめる。しかし、憑依霊の多くは邪神界の低級霊であり、それが高級な正神名を語ってつけ入ってくる。おどしたり、予言まがいの法螺を吹く。邪神界にとって何より恐ろしいのは、この住みよい彼らの持つ世をひっくり返してみろくの世界をつくろうという艮の金神の仕組なのだ。だからこそ彼らは必死で作戦をねり、わなを仕掛け、スキさえみせれば全力あげて大本の切り崩しに集中する。ねらわれるのは力ある者、大本内外の人士を心服させ得る大物でなければ意味がない。そこで大事なのは、その憑依霊の正体を鋭く判別する審神者の役である。よほど霊界の消息に通じ憑依霊を説得する識見を持ち、時に応じて自在に霊縛をかけ、あるいは断乎として追い払う勇気と霊光が必要なのである。むろん審神者自身の心が、一点の私情を交じえず正しく神光に照らされていなければならぬ。さもないと審神者が邪霊に打ち負かされて正神と信じかねない事態が起こる。今日でも憑霊をやたらに発動させて世間の耳目を集めたがる新興宗教があるが、危険このうえない。大正末期に至って王仁三郎は鎮魂帰神術を厳しく禁じており、現在の大本は魂を鎮めるための鎮魂(帰神を除く)だけがおこなわれている。秋山真之の再度来綾は大正六年六月十四日、初めてこの地を踏んでからぴったり半年目だ。この春に重い盲腸炎にかかり危篤を報ぜられたが、奇跡的に一命を取り止め数日前に退院したばかり。「殺せば損だと思われれば神さまが癒して下さるもの」と相変わらずの気焔をあげて秋山は神力の加護への自信を深めていた。綾部での二泊を秋山は寸刻もむだにせず王仁三郎や浅野をつかまえ神霊問題を鋭く追求した。二、三度は浅野の鎮魂を受けたが、手応えは早く霊眼が開けてきた。『神霊界』発表の神諭もむさぼり読んだ。

秋山の鋭敏な頭脳には、世界の人心の退廃と日本の危機は分かりすぎるほど分かり、゛立替え立直し゛の警告がいっそう身に浸みる。参綾を果たす前に戦略家の秋山らしく、何人かの斥候を放って大本の情報は充分仕入れてあっただけに、燃えるとなったらたちまち白熱化する。

「世間の奴なんて仕方がない。早く上流から覚醒してくれんととてもだめだ。さいわい自分はこの方面に便宜がある。これから大いに馬力を出してやらなけりゃならん」と激越な口調で秋山は言った。十六日に綾部を辞去する時には、浅野に「東京へ釆たらぜひ寄ってほしい」と頼んでいる。

それから四日めの六月二十一日朝、浅野は篠原国彦海軍大尉、秋岡亀久雄を同行して東京停車場へ下車、四谷信濃町の秋山真之邸に直行した。秋山は大喜びで一行を迎える。秋山邸の奥座敷には伊勢神宮の神棚があり、その棚の一万には稲荷の祠が祀ってあった。彼の宗教遍歴の一端を見るようで浅野の胸に不安の影がよぎる。秋山はある時期に明照教に凝ったが一年足らずでいやになり、つぎに川面凡児(かわつらぼんじ)(古神道家・古典考究社を主催)に傾倒し、同志を集めて講演会を開いたりしたが、一、二年で熱がさめ、のち池袋の天然社にも出入してみるが長く続かなかった。「どこへ行ってみても半年か一年たつうちに、自分のほうが偉く思われてきて仕方がない」と秋山は浅野に述懐していた。「秋山の長所も短所も実にこの一語のうちにあらわれている」と浅野は感じたのだが、この秋山の゛我゛ こそが、邪神群のつけ入る好餌であったにちがいない。

大本の存在と使命を、切迫した立替えの起こる前に日本の要所要所に知らせることが焦層の急だと秋山は作戦を練る。そのために大正六年度前半期の『神霊界』の合本をすでに五六部用意していた。まず秋山はそれを持って顕官宅を訪問し、浅野ら一行は秋山邸に待機する手はずがととのった。翌二十二日から秋山の行動は開始された。軍服姿の彼は、羽織袴の香森法学士一人を同乗させ、自動車で邸を出る。二、三時間後に勢いよく帰宅した秋山と香森の報告が、浅野らを驚かせた。

英政府顕官相手に大本の宣伝に熱中しているうち、とつぜん思いもかけぬ猛烈な予言が秋山の口をついてとび出したというのである。…「大正六年六月二十六日夜、東京に大地震が襲来するぞ!」 二十六日とは四日後ではないか。秋山自身、その予言は神からのものと確信しきっていた。

事は重大である。浅野はその予言を即座に否定すべきであった。が、理性では自戒しつつも、二度までも日本の危機を救う霊覚を与えられた天下の知将秋山のこと、「もしかしたら…」という迷いが浅野の態度をにぶらせた。ともかく鎮魂してその憑霊を調べたうえでという浅野をさえぎり、目前にせまる危機意識に焦れて秋山は次の顕官邸へと飛び出して行く。

浅野がようやく秋山を審神したのは翌二十三日である。傲然と正神の名を告げる憑霊を浅野は邪神と見破ったが、時すでにおそしである。地震の噂は刻々広がり、伝え聞いた友人将校たちが駈けつけて彼らをなじる。秋山は逆に審神者の浅野に不信任の意を叩きつけた。異様な空気が秋山邸にみなぎって息づまるばかりとなった。

六月二十四日夜、秋山からの速達で王仁三郎はこの事態を知った。何も知らされていないなおは同じ日へ筆先を出している。「悪の霊魂が善の肉体を道具に使うて、まだまだこの大本を悪く申して出口を引き裂きにくる。筆先に毎度知らしてあるが、誠を貫きてひとつ心になりておりたら、どこからこの大本へ詰めかけて参りても歯節(はぶし)は立たんぞよ。吾ほどの者は無きように思うて慢心をいたすと悪の守護神に悩められて、この大本の教えが逆さまに悪のやり方に見えて大きな間違いができるぞよ」

二十五、二十六日の両日にかけて王仁三郎は秋山邸に向け電報を十通ばかり矢つぎばやに打つ。「東京大地震の予言をすぐに取り消し、一時も早く綾部に引き上げよ。返待つ」

そのうえ王仁三郎の急使として豊本啓介が東上する。「いさぎよく予言を撤回して世間に詑びよ」とかさねがさねの王仁三郎の伝言も秋山の耳には入らぬ。しかしこれらの指令を無視して浅野らが二十七日朝まで秋山邸を動かなかったのは、浅野自身もなかば憑霊の言を信じかかっていたのであろうか。

二十六日の夜の綾部は異常であった。王仁三郎の命によってすべての宮の扉があけ放たれる。役員信者は全員集まり、夜を徹して東の空の無事を祈った。大難を小難に、小難は無難にと誠心を一つに合わせて祈りつづけたo

この日、数十人の役員信者をのせた船が金竜海でてんぷくしたり、突如として神苑内につむじ風がまき起こったり、霊眼で幽界の混乱状態を見せられる者が続出した。王仁三郎にスサノオノ命がかかって神歌を詠む。

常夜ゆく天の岩戸の開くなる 今宵の空の騒がしきかな

 もちろん大正六年六月二十六日の夜に東京に大地震など起こっていない。関東大震災が起こるのはその六年後の大正十二年である。

秋山邸で彼らはその一夜をどう過ごしたか。浅野は「いかにしてもこれ以上、書く気はせぬ」と詳述をさけている。もしこの日東京大地震が起こっていれば、多くの死傷者が出たであろう。阿鼻叫喚を目のあたりに見ることになろう。それを予期しつつ待つ彼らもまったく無事であるという保証はない。それでいながら神の権威の実証のために彼らは何を祈ったか。地震よ起これ、大地よ動いてくれ…ではなかったか。まさにおぞましい宗教的利己というほかはない。

この一夜を境にして、秋山は急転直下大本教を否定する側にまわり、長い悪罵の手紙を王仁三郎によこしている。浅野は書き示す。

「六月二十六日、東京大地震の予言は大本神諭の教ふる所でもなく、また自分などの入智恵でもなく、ぜんぜん秋山一個の予言であって、大本とぜんぜん無関係である。どうも秋山さんは立派な人ではあったが、あまりに焦りすぎ、あまりに神諭の教訓を無祝しすぎ、あまりに自己の力量を信じ過ぎ、またあまりにいろいろのヤクザ神に関係をつけ過ぎていた。悪霊の乗ずべき隙間はかなりたくさんあった。東京大地震の予言の如きはむろん正神のお告げではなく邪神の妨害運動であった」

やんぬるかな、その当のご本人浅野和三郎がまた秋山と同じ過ちを踏むことになろう

とは…。

秋山が大本を罵倒しているという噂が綾部に聞こえてくる。が、それも長くは続かなかった。まもなく秋山は盲腸炎を再発し、大正七年一月二十七月より小田原の竹馬の友・山下亀三郎の家で養生するのだが、二月四日午前五時三十五分逝去。平常口誦していた般若心経と教育勅語を交互に誦し、さらに皇室の安泰を祈ること両三回、合掌しつつ永眠したという。新聞の伝える趣味の項には「絵画(特に鯉の水彩画)、禅、神道、法華経、人相、古神道 (川面凡児に師事)等を研究」とある。

大本が秋山を誤らせたか、秋山が大本を誤まったか…王仁三郎はみずから喪主となって秋山真之を大本霊社に祀り 一代の俊傑の霊を慰めている。