■聖師は弓の名人
大正の初頭元年から二年へかけて聖師は盛んに弓を引かれたものである。大本神苑内二箇所に射場を設けて毎日のように弓を引かれたものである。聖師は斯道にかけても名人の域に達しておられた。八分から九分という素晴らしい強弓を使用して百発百中であった。この点においては斯道の大家も実見して舌を捲いたものである。しかし、聖師はなぜか知らぬが、大正三年初めになるとピタリとやめてしまわれた。聖師の端睨すべからざる行動進退は、とても凡俗の窮知し得るところではない。それであれほど熱心であった弓術もなぜやめられたのか、また何のためにはじめられたのかもわからない。しかし当時、聖師の弓に熱心なのが娯楽的に見えるというので、ある人がその意義を尋ねたことがあった。その時聖師は説明されて曰く。「アツハハハ、王仁や遊んでいるように思っておるのじゃろうなあ、王仁が弓をひいておるのは、世界が戦争をする型をさされておるのじゃよ。神さまが王仁を使うておられるのじゃから、今に戦争じゃ」と。はたして聖師が弓を止められるとともに、かの欧州大戟は勃発したものである。明治四十五年元旦に亀岡の友人を訪問されると、友人が「これは鎮西八郎為朝の弓だ」と聖師に見せると、「王仁は為朝だ」と言って立ちあがり、強弓をやすやすと引いて金的に命中させた。自画自讃に日く。我こそは鎮西八郎為朝よ浪の大島弓矢で守らむ 王仁昭和八年になると聖師は、亀岡天恩郷の中の島に弓場梓亭をつくり、しきりに出かけては弓を引かれた。果たせるかな、慮溝橋の日支事変を契機として、大東亜戦、太平洋戦争、第二次世界大戦へと拡張していった。(『霊界物語』第三十九巻校定版口絵写真参照)
■皇運御発展の祥兆
吾人は大正三年一月の桜島爆発を前知し、同年一月七日数十人の京阪間の会員を伴ひ、桜島の神霊を丹州穴太の山奥なる高倉山に奉迎し、且つ神勅に依り今回の爆発は万世一系、天壌無窮の皇道の発展すべき前兆なりと予告した車がある。其後時運の進展は日に月に接迫し来って、天地諸神霊の御活動は益激甚を加へつつあるので在る一旦は日東国の天地にも暗雲塞蔽し、桜島噴火爆発に百千万倍の大変事が起って来る。是ぞ神諭の実現で在って、世界の大峠である。この大峠を越え得る者は至粋至純の日本魂の活動である。此の古今未曾有の時機に際して、国民は如何なる覚悟を有って居るので在ろう乎。上下国民揃ひて此大峠を前に扣え乍ら、安閑茫然、千古の経綸を立て、以て皇祖皇宗の御遺訓に奉答すべき人士の尠きを慨歎せずには居られ無いのである。『伊都能売神諭』大正八年一月五日旧七年十二月四日世の立替に就ては昔の元の生神の神力つくしの世の限りしまい、火の手上りて天地は一度に震り動くぞよ。一度に開く梅の苞みも桜しま。何時破裂いたすやら人民には判るまいが、モウ時節が迫りて来たから、チットの油断も出来ぬぞよ。(参照)大正三年一月十二日、桜島大噴火。七月二十八日、喚対セルビア宣戦布告(第一次世界大戦勃発)。八月十五日、パナマ運河開通。十二月十八日、東京駅開業式。この年、大正琴流行。
■金竜海の注ぎ水
大正三年八月、暑い真盛りに起工して、大本の神苑内に三千余坪の池を掘りはじめられた。今の金竜海というのがそれである。当時そのあたりは畑つづきで、どこを見ても一滴の水も出そうもない。掘ったところで三、四尺下は綾部特有の一枚岩根でとても水の出るまで掘りきれはしない。それでも掘れという命令だ。水は一体どうするのだろうかと永いあいだ、工事に従事している者の問題の種だった。町の人々はとやかくと批判していた。それで、ときおり信者たちが出口聖師に伺うと、聖師は「池は掘ってしもうたら水はたまるのじや。掘るまではたまらぬよ!それまで黙って掘っておればよいのじゃ」と平然たるものである。池はあしかけ三年を要して竣工した。池がだんだん出来るにしたがって、またまた配水はどうなるのだろうと絶えず噂の種となった。けれども聖師は依然としてスマしておられる。役員ははじめから不安と焦慮とを重ねていた。すると竣工前半期ほどまえになってから綾部の町には、大本とは何の関係なく、須知山峠より水を引き、町の下水工事が開始された。そして誰言うとなく下水工事には貯水池として大きな池がいるそうじや、町ではよりより協議をしているとの噂がチラホラ聞こえ出した。そこである人がこのことを聖師に申し上げると、聖師は「それはそうや!それは神さまがさしとらはるのや」と笑っておられる。そして、お池が完全に出来あがるという三日ほど前になって、突然町の方から、「大本様では何の御用か存じませぬが、疾うからお池を掘っておられますそうですが、こんど町では下水工事をはじめましたところ、排水池が要りますので、お差し支えなくば、神様のお池を通さして頂くわけには願われますまいか、そうでないと町では別に新しい池を掘らねばならぬことになり、はなはだ困りますからなにとぞよろしく願います」と頼み込んできた。聖師は「それでは町の人に気の毒であるから人助けのためだ。よろしい」と早速に承引された。かくして水は一夜の中に満々と注がれ、三年越しの疑問の種であった金竜海の水の問題は解決された。『出口王仁三郎全集』附録第四号(昭和九年十月)金竜海には世界の縮図として世界の五大洲の模形の島が築造されていたが、大本第二次事件の際に埋められたのを、再び聖師の指図によって築造された。ここは陸の竜宮館の大本としては竜神のおすまい場所である。池と称していたが、開祖の筆先に「きんりうかい」と出たので金竜海となった。
■国祖大神と第一次世界大戦
大本教主(出口王仁三郎)は、「国祖大神は大正三年七月十八日より綾部の大本の神殿を、出立して七日間にて御帰殿された」と示された。三日後七月二十八日第一次世界大戦おこれり。(参照)『敷島新報』第四十二号大正五年十二月二十一日「神示と世界大革命」福中鐡三郎述[四]
■白馬の姿
大正四年十一月十日のことでありました。湯浅小久様が早朝開祖様のところへまいりますと、未明の神苑に白馬一頭の姿がありありと見えました。開祖はいつも雨戸は一枚だけあけられて、ほかはしめられているのに、全部あけはなたれてありました。開祖様にご挨拶をすましてから、白馬の姿のことを申し上げますと、「そうでしたか、実は天皇様の御即位について、日本方の神様は○○で、外国方の神様は○○で、神様たちの御意見がまとまりませんので、大本の神様が御仲裁にお出かけになりまして、仲直りが出来ましたので、ただいまお帰りになったところです。白馬は神様が乗ってお帰りになったものです」とお話になりました。(天皇、京都御所紫宸殿で即位礼を挙行。大正四年十一月十日)
■神武天皇(神日本磐余彦天皇)
聖師は大正五年四月四日、国祖国常立尊の神勅を奉じ綾部出発、四月五日旧三月三日、橿原神宮に参拝さる。神武天皇の神霊は神殿より出御されて、聖師に親しく神秘を語り玉う。畝傍山にのぼり「大神の御言はうまく鳴り渡るときは来にけり鳴り渡る時」と詠じ、畝傍の社に参拝して聖地綾部へ帰還さる。聖師は「今度は国祖の資格で参拝した」と示さる。聖師の言霊上の予言のまにまに、大正天皇大正五年四月三日、畝傍山に登り、橿原の宮に行幸したまう。(参照)『敷島新報』第二十九号大正五年五月一日号「畝傍山(一)(二)」
■神島開きの意義
(大正五年五月二十五日新六月二十五日、幡州の神島開きの時に)問 神島のような小さい島を開いて何になるのですか。答 神島は世界のことで、ここは型である。(谷前玉子氏拝聴)
■神島開き(開祖、大正五年旧九月九日、神筆を揮わる)
四月十三日旧三月十一日、聖師の左眼下の頬痛みだし、遂に神島形の舎利現れ出づ(神島開きの後に判明した)。六月二十五日旧五月二十五日、聖師によって播州の高砂沖の神島開き、坤の金神豊雲野尊の神霊を綾部の聖地へ奉迎さる。十月四日旧九月八日、綾部を出発、大本開祖、二代教主、十月五日旧九月九日、神島において坤の大神の祭典奉仕。開祖は帰神により、大正五年旧九月九日、神筆を揮わる。ここに厳瑞二柱の大和合となり、大本の大神業が発光することになる。大正三年、聖師の指揮で綾部神苑内の金竜海に築造された大八洲と、大正五年四月十三日、聖師の左眼下より出た舎利と高砂沖の神島とがまったく同じ形であることは、大本の雛形と縮図の実例である。(参照)『霊界物語』第二十二巻。第三十八巻第二十八章「金明水」二代教主すみ子様は、「先生(聖師)は左眼下より出た石を眺めながら眼を閉じたり、開けたりしておられたが、突然『わかった』と叫ばれると姿が見えなくなった。しばらくすると神島開きをすまして無事綾部にお帰りになりました」と語られた。聖師は「これは舎利というもので、徳の高い人から出るものである」と教えられた。この舎利は聖師によって亀岡の天恩郷の月照山の五六七塔の下に埋められた。神嶋や波高砂の一ッ松王仁。言霊動天地(凹版)。天爵道人(凸版)。
■六六六
大正六年新六月六日に、聖師の出生の因縁と使命について、聖師御自身の帰神によって啓示された。「神諭」大正六年新六月六日(瑞の御魂)七月十二日は○○の生れた結構な日柄であるぞよ。斯の日柄に初めた事は、何事でも善き事なれば、一つも滞り無く成就いたすぞよ。明治四年七月十二日に、貧しき家に産声を上げたものは○○であるぞよ。外にも沢山に斯日に生れた身魂はあれども、今度の世の立直しに成る身魂は、世界に一人より無いぞよ。色々と艱難苦労を致さしたのも、神の経綸でありたぞよ。二十八歳の二月の九日から、神界の御用に使ふたぞよ。(以下略)(註)聖師の高熊山入山の日は二十八歳、明治三十一年旧二月九日新三月一日。明治四年旧七月十二日新八月二十七日生
■本宮山に和知川の水をあげる
大正八年二月二十二日に綾部本宮山が大本の手に入ると、聖師様は、「本宮山に和知川の水をあげたい」と申されるので、二代様が「大本でできますか」とたずねられますと「大本でしないならば世間でやる」と語られました。綾部市長の申し出の際に、二代教主は聖師様の言葉によって許可を即答された。(参照)本宮山山頂の碑文ほんぐうやまにわちがわのみづくみあげていのちのましみづながしゆくなりでぐちすみこ(裏面)綾部市上水道の建設に際し二代教主は市民の切実なる要望を容れ神苑本宮山の頂きに貯水地の設営をゆるさる程水神域に集って浄露となり永く市民を青くむ民豊穣の源たるべし教主の英断と公誼を謝し記念して之を建つ昭和二十八年五月初代綾部市長長岡誠
■日露戦争は日の暮の鐘、世界戦争は暗夜の鐘声
我日本国は、幸にその暗黒な、ひどい影響を受けませぬでしたから、世界戦争(編者註=第一次)の起りつつある間に十分の準備をして、世界を道義的に統一する機会を与へられたのでありまして、そして日本国は愈々改造の時機に向つて居ります。彼の日露戦争は日の暮の鐘、世界戦争は暗夜の鐘声であります、日本国は日の出の守護になるに就て、世界は総て、統一的機運に向つて居ります。(後略)(大正九年十月四日五六七殿講演筆記)(参照)『神霊界』大正九年十月二十一日号「日本書紀解説神武天皇東征之段」十六頁

■綾部の並松
並松は国常立尊を沓島に島流しに舟出したところであるから、崇るのだ。眷族(信者)は冠島へ流したのである。(大正十年)(参照)第二次事件の控訴審聖師答弁「国常立尊はトルコのエルサレムから日本へ押込められ、また日本から押込められた」(大本節分大祭に人型流しの神事はここで奉仕される)
■神示の霊夢
大正十年第一次大本事件公判の際、京都の宿舎(梅田信之氏宅)にて、聖師様は実弟小竹玖仁彦氏に「神様にお願いして夢を見せてもらえ」と申されたので、小竹氏が御祈願されしところ、旧八月十五日(新九月十六日)より毎夜続いて十日間、次のごとき夢を見せて頂きし由なり(但し日曜二日と秋季皇霊祭は夢なし、正味七日間なり)。一、大鰐あり泰然自若としている。その側に大虎二匹あり、互いにかわるがわる鰐に飛びつく。しかし鰐は平然として、ときおり虎の額を尾にてはねる。かくする事数回にして大虎は中田検事と宮脇警察部長の顔となりし由。二、沓島の如きところあり。大鰐水面に大虎は岡の上にあり。狼高所より見下しおれり。小鰐がノソノソと登り行く。大虎が小鰐を口にくわえんとすれども得ず。互いに戦い終に小鰐下に落つ。次にまた他の小鰐あり。前回のごとく戦う時に大鰐言葉を発して言うには、「四ツ足をくわえて引き込め」と。終に四匹の小鰐四ツ足をくわえ引き込む。大虎は哀れにも水を呑んだ。三、法廷にて公判を聞く。判事、小竹氏に「公判終りたれば感想あれば述べられよ」と。小竹氏感想を述べたくて仕方がないので聖師様に話されると「やれやれ」と申されたので、直ちに黒板の所に行き白墨を取りたら意外にも、イ、白黒を判事佐藤りし明判官裁きの庭も明くなるなりロ、宮脇に立ちて裁きを聞く耳は蜂の弁護にさされけるかなハ、とらまへた王仁の尻尾でしばかれて罪は中田で部長面をするニ、ほりこんで栗田お蔭で丹波ぐり今ははじけて世にいでにけりホ、京都府高き芝にて焚き見れば警部隊ばかりで煮えきらぬなり以上のごとき五歌が出たので、直ちに書き、われながら不思議に思い、手帳に書き留めて座に帰る。その時大風あり黒板は検事の上にかえる。夢がさめて(二十六日の朝)みると、私の部屋の六枚屏風が風でかえりて、谷村正友、中野二氏が起こしておった所であった由。六枚屏風(書記二人、判事二人、陪席一人、検事一人)四、和知川より材木流れてくる。大本行きと書きあり、引き上ぐる事六回すなわち六材(無罪)なり。五、小竹氏、品川駅に下車して歩いているうち、後より労働者らしき者来たり、氏の布の煙草入れを引き取り捨ててしまい、自分の鰐皮の煙草入れを出して、今の流行もの鰐皮の煙草入れを知らないかと言い通り過ぎた。氏は茫然として歩くうち、町に大勢が黒山のごとくたかりおるのに出会い、何事かと見ると、鰐皮の品々を売っておった。また電話番号五六七と書き、みろくと仮名をつけた電話を百万円で買いますという札が掛っておった。六、中田検事が大本に羽織袴で来て、「前の事は示談で済ましてくれ」と言う。小竹氏が自分で返答をしかねて聖師様に取り次ぐ。聖師様、中田検事に面会して「示談で済ますと言うても百二十六日も監獄に入れて、ほどがあるではないか」と言われておった。七、大本信者弥仙山に参拝、淤与岐の八幡宮にて常に神主先達なれど、今度は別にして私(小竹氏)先達す。登って行けば大虎二匹左右にあり、皆話しあって頭髪の長き者は後ろより、短き者より進むこととなり前進す。さて二匹の虎は神様に参拝の節だから殺すのは悪いから生捕りにしてやろうということに定まり、まず祝詞ということになり、祝詞を奏上するうち、虎は小さくなり二匹の猫になる。竹下(斯芸琉)氏と私がまず懐中に入れ、帰路には信者交替にて持ち帰る。
■大審院判決(第一次)の予言
これより前、聖師が出発なさる前、二代様は「十五日の晩の月が立派であれば無罪」と申し告げられた。昭和二年五月十五日に、聖師様は旧四月十五日夜の月を仰ぎつつ東上された。五月十七日十時半、大審院に出頭されて「七年にわたりし大本教事件けりがつきにけり無事にすみけり」の歌となった。
■金をやろう
大正十年二月十一日、大阪梅田の大正日日新聞社の社長室に、出口王仁三郎社長をたずねた吉野時子さんに「お前に金をやろう」としきりに言われるのを無理に振り切って帰宅しました。翌十二日に王仁三郎社長は大本第一次事件によって検挙されました。頂いておったら、綾部の二代教主にお届け出来たのにと残念でたまりませんでした。
■本宮山大神殿
大正十年十月二十日、綾部本宮山大神殿破却開始の日である。在郷軍人三千人が動員されて取りまき、二百人の人夫の手で、大神殿がいよいよ破却されはじめようとしていた。血気にはやる青年信徒は神殿に手をつけたら承知せぬと、短刀を懐中にかくし持って集まってきた。聖師はその青年たちに「今日は何事ですか。王仁はこの大神殿が嫌いで壊したいのだが、こわしたら信者がおこるし、ところが今日から政府の手でこわしてもらうことになったので王仁は喜んでいるのや」と申されるので、阿呆らしくなってそれぞれ郷里へ帰ってしまった。聖師は『霊界物語』の口述を十月十八日旧九月十八日から開始され、二十日からは神殿を大破却する音を聞きながら本宮山山麓、和知川畔の並松の松雲閣において口述を経続されたのである。即ち神を生み出しはじめられたのである。(参照)聖師の言葉昭和六年十月十八日旧九月八日私は神様から「今のは仮の宮である、これをいったんつぶして立直さねばならぬ」と伺っていた。しかしこちらから致すことは出来ず、さりとて腐るまで待てば非常に年数がかかるし、自分が致せば信者が承知しない。政府から毀されるのはかえってこれ幸いであって、神の仕組であると嬉しい気持がした。お宮を毀されて嬉しいというのは変なものであるが、より以上立派なお宮が早く建つことを思えば、嬉しくて憤懣も何もなくなったのであります。
■瑞の神歌の内容
「瑞の神歌」は、大正六年当時の霊界の状況を歌ったものである。(大正十一年桜井重雄氏拝聴)(参照)大正六年十二月一日の「大本神歌」および大正六年十一月三日の「いろは神歌」(聖師は大正七年五月に「戊の午の春より霊界に大争闘のはじまりて居り」「霊界のたたかひ済めば現世につづいて戦争はじまると知れ」と警告されていたが、昭和六年九月八日、本宮山山頂に教碑が建立されるや、十八日より実現し始めたのである)
■関東大震災と瑞雲の活動
大正十二年九月一日の関東大震災について「大本から信者の慰問に行かねばならぬと思いますが」と聖師様に申し上げると、「王仁が救うのにどんなに苦しんだか判らないか。慰問に行くことはいらぬ。早くお礼に来るように奨めるためならよろしいが」とお答えになりました。(東尾吉三郎氏から昭和二十三年六月二十九日に、二代教主より福井震災見舞を命ぜられた木庭次守への心得としての話)
■関東大震災と瑞雲活動
(関東大震災のときに)大本の話を一度聞いた人は皆救ってある。しかし今後は知らない。(大正十二年九月)
■関東大震災と霊界物語
関東大震災の日(大正十二年九月一日午前)には熊本県山鹿町の、町経営の温泉の附属旅館の松風館にお着きになったので、鹿本支部、菊池支部、大八洲支部、八代支部の連合で歓迎しました。聖師のお話を聞くために集まったが、宇知麿様に「『霊界物語』の大地震(第三十一巻第二章「大地震」、第三章「救世神」)のところを読め」と言いつけて、ご自身は休んでしまわれた。信者は宇知麿様の拝読される物語を心もとなく拝聴していたが、翌日九月二日、関東大震災の号外が出て、信者一同、聖師様の先見の明に今さらの如く感嘆致しました。(尾形太郎作氏拝聴)休まれたのは霊的大活動のためである。
■みろく最勝妙如来
大正十二年八月、杖立温泉湯治をおえて、九月二日関東大震災の翌朝、聖師様は熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現在は山鹿市)の不動岩へ登山されることとなりました。まず、その下の小さな家に小憩されました。「聖師様、小さい家で申し訳ございません」と信者が申し上げますと、「王仁はこんな家が大好きじゃ」と言われ、その家の中に祭ってありました観音様を見て「王仁がいつも観音様を書く時に見えていた観音様はこれだ」と喜んでふれられますと、前後に一尺も石像が動き出しまして、しばらくたってようやく止りますと坐って「王仁が触ったら喜んで動かれるので、倒れてはいかぬとつかむとますます動かれるので持っていた」と申されました。その瞬間に石像の胸に月の如き白き形が出来ました。「これは観音様じやない。弥勒最勝妙如来」と示されました。ならんで写真を撮影されますと、聖師様と全くの等身大でした。(聖師様は大正十四年六月三十日に弥勒神像のあたり一帯を瑞霊苑と命名されました。聖師様がこの地に参拝されますと、きまってどこかで天災地変があります。関東大震災号外はここで受け取られました。昭和九年九月二十一日参拝されましたときは室戸台風(死者・行方不明三千三十六人)による大阪の風水害のおりで、九州別院から代理を派遣された時でありました)(尾形太郎作氏、桧浦教友氏拝聴)(参照)『霊界物語』第三十三巻校定版口絵写真
■大本の神器「御手代」と聖師日和
大正十二年八月、聖師は熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉で湯治された。この時、誕生日の旧七月十二日(新の八月二十三日)夜の月を仰いで、杖立名産の竹の杓子の裏にこの杓子我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな王仁(此杓子吾生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな王仁)表に天地の身魂を政ふこの杓子心のままに世人救はむ王仁(万有の身魂をすくう此釈氏心のままに世人す九へよ王仁)(註=括弧内は、杖立の白糸の滝下に建立された御手代歌碑の歌詞)と揮毫され、◎の拇印を押されて来訪する大本信者に授けられた(歌詞は多少の相違がある)。これが大本の神器「御手代」の発祥である。小国の信徒は聖師のお土産に竹の杓子三百本を贈った。聖師はこの竹の杓子に揮毫され、◎の拇印を押して、大本の熱心な信徒や宣伝使に授与された。大正甲子十三年六月二十一日、蒙古のパインタラの遭難の時に、この御手代が日本人に拾われて、鄭家屯の日本領事館に届け出たために救出された。聖師が地上の神人を救うために授けられた神器御手代は、まず聖師自らを救った。聖師が杖立温泉に滞在中に、エスペラント辞典を書きあげられたことも忘れることはできない。三代教主の許可された御手代(奥村芳夫氏が頂いたもの)は歌碑として、歌詞を引きのばして、杖立温泉の聖師が「神と人のえにしを結ぶ白糸の滝の流れは世を洗ふなり王仁」と詠まれた白糸の滝の下に、昭和三十八年五月三十一日に出口直日建之として、同日に直日教主臨席のもとに除幕された。降り続いて九州全土の麦を腐らした雨もたちまち晴れあがった。台風銀座といわれた九州もこれより、台風は縦走しなくなった。実に神徳は無限である。聖地においては、聖師が家外に出られると必ず快晴となるので、「聖師日和」と唱えることとなっている。「みてしろ歌碑」建碑除幕式には、さしものなが雨も晴れあがった。
■みろく神像と蒙古入と御手代
聖師様は聖地へ帰着されますと、「早くみろく神像を家の外に出さなければ活動が出来ない。そして雨ざらしておくように」とのお便りがありましたので、当時山鹿町長でありました江藤寛治氏が熱心に村民を説きふせて、家の外に簡単な屋根をするとの条件で決定し、聖師へその由をお伝えしました。手紙を受け取った聖師様は、大正十三年二月十三日午前三時、綾部から突然入蒙された。神像を出しますのに、裏壁を破って神像に疵が書かないようにと、縄でぐるぐる巻いて外に出しました。六月二十一日、パインタラにてガンジがらみにしばりあげられました聖師は、自らが大本の神器として杖立温泉で染筆された御手代が日本領事館の手に入り、奇蹟的に救出された。パインタラで逮捕された時に「大成功だ」と叫ばれたように、世界の王仁三郎と仰がれることとなる。世界の大池に投じた王仁三郎の一石は大反響を生む。
■王仁は日本人だ
王仁がパインタラの獄舎につながれている時に、日本領事館から土屋書記生が、御手代を証拠として、救出に来たおりに、支那官憲は支那人だといって交渉に応じない。談判の声が、牢まで聞こえてきたので、王仁は大声で「王仁は日本人だ」と叫んでやった。土屋書記生の耳に入り、「日本人がいるではないか」と、ドカドカと獄舎に入って来て、「あなたが出口さんですか、もう私が来たから大丈夫です」と言って帰って行った。この時ほど日本の国はありがたいと思った事はなかった。七月五日に鄭家屯の領事館の獄にうつされて、ホッと安心した。(鄭家屯領事館領事吉原大蔵、外務書記生土屋波平)(参照)『霊界物語』「特別篇入蒙記」
■瑞霊苑と弥勒神像
大正十四年六月三十日に、聖師は熊本県鹿本郡三玉村蒲生にある聖師と等身大の弥勒神像の奉斎された聖域を瑞霊苑と命名された。沓島、冠島、神島と同様に祠官を置き、尾形太郎作氏を祠官に任命された。「神像は『霊界物語』第二巻に示された美山彦命の造りし神岩(土地で不動岩という)に向かいあうように鎮祭せよ」と、聖師の示されたままに、大正十三年三月三日に鎮祭された。(参照)瑞霊苑碑建立出口直日大本三代教主の揮毫の「瑞霊苑」の文字を、熊本県菊鹿町より出た十個の岩石の中の巨石に刻み、弥勒神像の北側に、みろく岩(不動岩)に向けて、青年時代の夢のままに建立させて頂く。昭和四十五年十月二十五日、弥勒神像の四十七周年の大祭に引きつづき、瑞霊苑碑の除幕式が直日教主によって行われた。山鹿市長古閑一夫氏を始め、九州地方の大本信者が参集して盛大に執行された。直日教主によって木花桜が植樹された。碑のまわりには、天恩郷の植物園から七草が移し植えられた。(ちなみに、昭和二十九年四月一日に土地の名称は、合併によって山鹿市大字蒲生に改称された)
■大化物五十六歳七カ月
「筆先に三千世界の大化物(聖師)が現はれて云々と言ふ事があるが(中略)兎も角大化物が満五十六年七カ月に成った暁を視て居れば良いのである」(『神霊界』大正八年八月十五日号「随筆」)と示されていたが、神示により昭和三年三月三日に、綾部の至聖殿において、五十六歳七カ月の弥勒下生の報告祭を奉仕された聖師は「万夜の常世の暗もあけはなれ弥勒三会の暁清し」と朗詠された。これがみろく大祭の嚆矢である。このみろく大祭は、聖師が大本事件によって、大正十年二月十二日以来、昭和二年五月十七日大審院において免訴の申渡しを受けて、始めて表面にたって、活動を開始された実にめでたい日であった。ところが、検察当局によって、このみろく大祭を国体変革の秘密結社の結成と枉げられて、大弾圧を受くることとなる。大本第二次事件の証拠とされる。
■月宮殿
昭和三年十月二十七日、瑞月門完成、三十日、月宮殿完成。十一月十二日旧十月一日、月宮殿ご神体を聖師、二代教主以下三十六名、綾部から徒歩にて亀岡へ奉送。月宮殿ご神体鎮祭(みろく石、月昇石、日昇石、三光石、暁星石、宵星石)十三日、長生殿地鎮祭。十六日旧十月五日、月宮殿竣成式。聖師のお歌岐美が代は千代万代に動かざれと石もて造りし月宮殿かな 王仁最奥霊国の月の大神の神殿を地上の霊国の亀山に遷座された。(参照)『霊界物語』第二十一巻第三章「月休殿」。第四十八巻第十二章「西王母」。第十三章「月照山」。『水鏡』「月宮殿の宝座」「地上に移写すオリオン星座」。歌集『霧の海』「瑞月門」「オリオン星座」
■三三三と七七七
「綾部の至聖殿で昭和三年三月三日にみろく大祭を奉仕いたしましたのは、七を重ねるのは大凶悪数でありますから七七七に三三三を加えて十十十として祝ったのであります」右は聖師がみろく大祭の意義について、昭和十三年の京都地方裁判所で庄司直治裁判長に答えられた言葉である。昭和十二年(西紀一九三七年、皇紀二五九七年)の七月七日、慮溝橋の支那事変に対する答えである。西紀も、皇紀も、七七七と重なるので、三三三を加えて十十十と神の数として、世界の厄難を祓わんとされた。昭和六十二年七月七日は慮溝橋事件より五十周年である。感慨無量である。世界人類の真の幸福と平和を祈られた聖師のおもかげが見えるようである。慮溝橋の橋の柱は皆、擬宝珠の代わりに、獅子頭でかざられている。意味深重である。『霊界物語』では、杢助、時置師神、岩彦、木花姫命がライオンにまたがって、善を助け、悪をこらしたまうのである。昭和六十二年は西紀一九八七年であり、皇紀二六四七年である。旧七月七日は、新の八月八日で、神集祭第二日日である。
■聖師再度アジア大陸へ
中国道院および世界紅卍字会の訪日、大本来訪、さらに大本と道院の合同に答えて、聖師は二代教主をともなって、昭和四年十月十二日旧九月十日出発。二十一日長春、二十三日ハルピン着、三十日旧九月二十八日帰郷された。途中、大正十三年六月、パインタラ遭難の時の聖師を救出した元の領事館の書記生土屋波平氏に謝辞をのべ、記念品を手交された。聖師の円熟した風貌にただただ感激された。聖師の大正甲子十三年二月十三日からの蒙古入りは、天職である火の洗礼をアジア大陸から全世界に施すためであった。昭和四年十月に再度の朝鮮半島、中国大陸への巡教は、火の洗礼の大神業を本格的に断行するためであった。
■穹天聞
穹天閣(本宮山上)は迎え火をたいているのだ。再興してるのにまだ取り壊しに来ぬかと言うことで、取り壊しの時の痕跡(柱)をわざと見せてあるのである。(昭和五年四月三日完成式)
■昭和五年五月五日
昭和五年五月五日に、神示によって本部をはじめ全国一斉に神殿および祠宇のお扉が開かれたが、本年即ち昭和十年十月十日に再び神示があって、透明殿や光照殿の門が一斉に開放された。これは神秘的行事に対して即ち人間界の神業が五年遅れていることを神界からお示しになったものである。

■九月八日に鶴山玉座に三体の建碑
聖師は昭和六年八月二十五日旧七月十二日、満六十歳を迎えて、更生祭の祝賀を感謝された。神示によりて大正十二年十二月九日に鶴山に引きあげ、大本教旨「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰也神人合一して茲に無限の権力を発揮◎」を刻んで、文字面を伏せておかれた巨石を右側に、中央には大本開祖の初発の神声「うぶこえ三ぜんせかいいちどにひら九うめのはなもとのかみよにたてかへたてなおすぞよすみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよめいぢ二十五ねんしようがついつか、で九ちなお」と刻まれた神声碑、左側には「盛なりし官居の跡のつる山にやまほととぎす昼よるを啼くよしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ昭和六年七月十二日出口王仁三郎」の回顧歌碑を九月八日に建てられた。聖師は「これが建ったら満洲から世界が動き出す」と語られました。たちまち十八日に満洲事変おこる。聖師はさらに「『瑞能神歌』の実現期に入った」と語られた。たちまち『瑞能神歌』は発売禁止となった。
■江州はユダヤの型
昭和七、八年頃、聖師様が「天風海濤」と書かれました。その頃、琵琶湖があれて舟が顛覆したり水が赤くなったりしたことがありました。聖師様は「ユダヤの竜神と日本の竜神との戦いであった。江州はユダヤの型でここが開けんと世界は開けん。宣伝歌を歌って、琵琶湖を一周するように」と教えられました。
■予言と神の経綸
九鬼○○氏が昭和八、九年頃、大阪毎日新聞に四段ぬきで日米戦争の予言を出したので、聖師に桜井重雄氏がお伺いすると、「これはほんまや。しかしこれを発表したら神界の邪魔になるから、仕組を神様が一寸変えてしまう」と教えられた。
■大阪の風水害
昭和九年九月二十一日の関西地方大暴風雨(室戸台風)の時、聖師は大本九州別院におられたが「王仁がいたから、九州は助かった」と語られるので「今後は」とおたずねすると「しかし今後は知らぬ」と申された。
■世の中が動く時
内宮(伊勢)の方面で五、六軒の信者が出来る。その頃になると日本は大変なことになって、世の中が動く時だ。(昭和九年十一月十五日、昭和神聖運動で聖師が皇太神宮参拝の折、内宮の近くの岩戸屋という旅館に休養された時のお話)(参照)『神聖』昭和十年一月号「随筆」三頁
■昭和神聖会と神聖神社
聖師は「人類愛善新聞が百万部出たら神が表にあらわれる」と言われていた。昭和九年三月八日に三月三日号をもって百万部の拡張達成。聖師から「以百万神士欲雄飛天下」の色紙を新聞社とアジア本部へ贈らる。記念に聖師像の徽章を大本信徒全員に贈らる。ここに昭和神聖会が創立されて、東京の九段の軍人会館において七月二十二日に発会式を開催さる。聖師は誕生地穴太宮垣内に、明治三十一年二月九日の高熊山の神勅によって十二月二十九日鶴殿君といわれた大宮守子様の大正十年に献上された玉鏡剣を御神体として建立された神聖神社を昭和神聖運動の中枢として、日本全国へ神聖皇道宣布の大活動を展開された。皇神のみたてと四方をかけめぐり神聖会を創立なしたり 王仁(昭和十年十一月)神聖のよさし給ひし神聖会は神のまにまに動くべきなり 王仁(昭和十年十二月)『大本神諭』の「これ丈知らしたら、世界に何事がありても、神と出口を恨めて下さるなよ」の実現であり、出口王仁三郎聖師自ら日本国民に直接に、宇宙大本神にます独一真神の神教を、伝達されるための大神業の実践であった。神聖運動は『大本神諭』の実行であった。
■長生殿
皇道を世界に宣布するには祭政一致が必要である。(参照)神霊の奉安所を本年十月二十七日斧始式を吾々は大正十年あの事件の時に、皇道の大本を唱導たのが怪しからぬと云うて裁判所で小言を云はれました。又祭政一致を主張するのは不敬であると云はれたのでありす。併し乍ら現在では皇道を口にせざる者は紳士でない、人間でないといふ様な時勢になって来ました。又祭政一致の実行にはどうしても機関説を排せねばいけないと云ふ事になって改府は已に機関説反対の声明を出したのであります。今迄色々な狂潤怒涛を乗り越えて来ました。この皇道大本に肝心のもう一つ遅れて居る事があるのであります。これは何かと云へば祭政一致である、皇道を天下に宣布発揚せんとせば、どうしても大神様の神霊の奉安所を建てて、神様に奉る必要が迫つて居るのであります。この祭政一致の精神によつて、大正九年から十年にかけて、鶴山山上に荘厳なる神殿を拵へましたが御存じの様な次第で、あれは壊されて了つたのであります。けれどもその後信徒諸氏の信仰心は益々強烈になつて来たのであります。さうしてどうしても壊されたる宮の跡に於いて慨く事を止めて、再び再建する曙光に向つたのであります。故に本年の十月二十七日の記念日(大正十年十月二十七日本宮山神殿取毀完了)に斧始式を執行したいと思ひます。そして先づ天地の大神様を奉斎し、それから皇道を中外に向つて宣揚したいと思ひます。今日も中外に向つて宣揚して居りますが、肝心の不言実行といふ点に於いて、神様の奉安所が出来てゐない事は、実に吾々として遺憾の至りであります。故に祭政一致の国家の精神によつて、先づ皇道大本としてはこの神殿の造営が必要と思ひます。亀岡に月宮殿鶴山に長生殿この神殿造営が逼《せま》つて来た事は何故かと云ふのに、亀岡は昔から花明山(亀山)というて居りました。あそこには月宮殿が出来て居ります。この鶴山には長生殿が建つといふ事になつて居ります。これは鶴亀と云ふ謡がありますが、古人がこの将に来たらんとする世の事を諷してあれは作つたものであります。吾々には言霊解で解釈すれば今度の事だといふ事が、すつかり判つて来ます。さうすると大神様の御催足といふものが、亀岡天恩郷に於て私が東京から帰つた晩から三羽の鶴が毎晩出て来て公孫樹にとまつて居ります。又一尺余の石亀が這込んで来たのであります。これは、どうしても鶴山と亀山が一致せねばいけないといふ神様の、私は示しと感じまして、どうしても早くこの神殿の造営が必要だと思ふのであります。又神社法といふ規則がありまして、神社と云ふことは出来ない又宮殿と云ふことも出来ないので、これは昔の謡のものによりまして、長生殿と云ふのであります。長生殿の建築であります。もう已に月宮殿は出来て居ります。神様は裏がなく、表がない。それであの月宮殿は十字の形になつてをります。どちらから見ても、裏も表も同じ形になつて居るのであります。今度の長生殿も十の字になって、どちらから見ても同じであります。あの伏見人形というものは前から見ると彩色をほどこして立派でありますが、後から見ると素焼の人形であります。今日の神社であらうが、寺であらうが、全部前からは立派でありますが、裏から見るとその構造や、何かが、前面とは余程劣つて居ります。併し神様には裏表がない、正直である、乾坤に通じて居るといふ精神から皇道の本意を体しまして、
今度の長生殿も神様をお祀りしますから、十字の神殿にしたのであります。又お筆先に「世界十字に踏鳴らす」といふ事があります。キリスト教の徽章も十字架であります。又紅卍字会もあの十の字をくづしたのであります。仏教も十字形である。卍も皆十の字形を真似たのであります。法華の日蓮宗のも十の字を尖らした丈ある。大本も十の字でありますがまるの十字であるのを、くづして十曜の紋にして○を十拵へたのであります。裏紋としては○に十を大本は使うて居るのであります。今迄の既成宗教、これは自然に経緯即ち、天地水火の揃うた象徴をもつて居るのでありますが、この神殿だとか、至聖所といふものは裏表があつて、その徽章に合致していない。この皇道大本はこの徽章の通り神殿を造らしていただいて、天も地も清浄に真釣り合はさうと云ふので長生殿が今度十字型となつて現れるのであります。(昭和十年八月十日みろく殿)(『真如の光』昭和十年八月十七日・二十五日合併号十一頁)こはたれしその日を卜して此秋を長生殿の斧始めせむ長生殿建ち上りたるあかつきは神の経綸も漸く成らむ(『神の国』昭和十年十一月号「言華」)大神の鎮り給ふ大宮の成らずば神業成らざるを知れ(『神の国』昭和十年十二月号「言華」)(参照)『出口王仁三郎全集』第五巻、「謡曲言霊録」([西王母][巻絹])。『霊界物語』第十九巻第一章「高熊山」。同第四十八巻第十二章「西王母」、第十三章「月照山」。歌集『霧の海』「長生殿」
■王仁五十六年七カ月から六十六年六カ月
自分は五十六年七カ月より此の大神業の準備を初め昭青坤生会等を組織し昨年初めて神聖会組織まで進んだのだ。而して自分の六十六年六カ月には出来上る積りである。(昭和十年三月二十日台湾にて『真如の光』昭和十年四月二十五日発行二十三頁)(またこの時に聖師は「大本の御用は済んだ」と言われた。大本の神示による予言警告の使命はほとんどおわっていたのである)■月宮殿の木賊(とくさ)
小幡神社の上田美知様が、「昭和十年、月宮殿に参拝したら、聖師様が『とくさ』をやろうと一握りひきぬいて下さったのがこれです。沢山に殖えました」との事であったので、昭和二十六年に小幡神社の社務所の庭からその「とくさ」をたくさん頂いて月宮宝座の前に植えさして頂いた。第二次大本事件を前知しての聖師のお仕事と感得したのである。もともと月宮殿の木賊は穴太から献上されたものである。歴史は繰り返すものである。昭和四十九年に日本タニハ文化研究所碑の辺りにも植えさせて頂く。
■救いの神船
大本島根別院で聖師様をお迎えして盛大に神劇を行うことになって、本部からわざわざ出張している時の事。聖師の御気嫌がすっかり悪くなって「神劇はやることならぬ」とおっしゃるし、信者は二千人以上も神劇を拝観のため来ているし、困ってしまった折、南尊福氏がお心持を伺いますと「救いの舟が出て来るところがないからいかんのじゃ」と申されますので「いや実は救いの舟のところまでやるのでありますが、ビラに書き落としたのです」と申し上げますと「それならやってよい」とたちまち御気嫌を直されました。実は『霊界物語』「天祥地瑞」の午の巻(第七十九巻)第二章「愛の追跡」の「『天晴れ天晴れわれはゆくなり水底の龍の都の妹が側に』と歌い終り、ザンブとばかり湖中に身を投じ、あと白波と消え失せにける」までしか企画されていなかったのを、お言葉に従い急に第四章「救ひの船」の艶男が水火土神の救いの舟に救いあげられる場面までを追加して神劇を無事行う事が出来た。聖師様は一つの神劇にも「救ひ」を考えていられた。(昭和十年)
■透明殿の石垣
聖師は御生母上田よね子刀自の昭和八年六月二十日昇天され二十一日葬祭の玉串を「きょうだい(弟妹)にやると無駄使いするから」と、全部天恩郷の透明殿の石垣の費用にあてられた。石垣づくりは(近江の)「穴太から呼べ」と穴太の石工に築かせられて、昭和十年十二月四日に完成した。「早く造らぬと壊れるから」と陣頭指揮で築かれた。最奥霊国の姿をそのままに亀岡天恩郷に造営された。第二次大本事件が目の前に迫っていることを直感されていたようである。現在の万祥殿の下の石垣はその復元。
■時が来た
(家口郁さんが透明殿にて聖師に「亀岡で私が金時計を拾いました。子供が上海旅行で銀時計を拾いました」と申し上げたら)時が来た。お前たちには判らぬけれど。(昭和十年の末頃)
■毒瓦斯よけ
松葉を噛むこと。大根を生で食うこと。葱を食べること。梅干を食うこと。
■長崎
長崎は戦争の最後にひどい目に会う。(昭和十年長崎にて)
■第二次大本事件の予告
問 「聖師様また大本事件がおこりますか」答 「どうしてもあるなあ」問 「その時は私も這入らねばなりませんか」答 「そうだなあ百日這入つたらよい」(昭和十年頃)(第二次大本事件の時、大沢晴豊氏は翌十一年に佐世保市山県猛彦邸の前にて捕われてちょうど百日目に釈放された)
■厳と瑞と扇
厳と瑞とは扇の骨の如きもので真っ直なものは一つだけで、他は真っ直でないのである。構に真っ直になったら用をなさないのである。(昭和十年以前桜井重雄氏拝聴)
■四尾山のお宮
問 御神諭に四尾山に国常立尊のお宮が建つと書いてありますが。答 本宮山のお宮がそれだ。峰続きじゃないか。(昭和十年以前)
■世界の竜宮海
世界的にいうと濠洲とジャワとスマトラの間が竜宮海である。(昭和十年以前)(参照)『霊界物語』第七巻第二十二章「竜宮の宝」、第二十三章「色良い男」。第八巻第十一章「海の竜宮」。第十二章「身代り」
■モールバンドとエルパンド
モールバンドとエルパンドは○○と○○である。(昭和十年以前)(参照)『霊界物語』第三十二巻第一章「万物同言」乃至第六章「獅子粉塵」
■救いの鈎
聖師様と石川県能登の浜中助太郎氏の一問一答浜中氏 世界の終りには天から救いの鈎がおりて来て救うのですか。聖師 そんな事はあらへん。(昭和十年以前)(参照)『霊界物語』第五巻第二十三章「神の御綱」。第二十四章「天の浮橋」。第六巻第十五章「大洪水[一]」。第十六章「大洪水[二]」。
■台湾
台湾はみろく様の姿だ。(昭和十年以前)(日本列島は竜体である。竜体の頭は九州であり、尾は北海道であり、台湾は宝冠である。聖師は昭和三年八月、北海道の芦別山より綾部の四尾山に国祖の神霊を奉迎される)
■御倉魚
御倉魚は御倉のこと。(昭和十年以前)(参照)『霊界物語』第三十巻第十四章「霊とパン」
■狼
北光の神の使った狼は満洲の土民のことである。(昭和十年以前山内陽明氏拝聴)(参照)『霊界物語』第四十一巻第十章「狼の岩窟」

■本梅は朝鮮の離型
本梅(亀岡市)は朝鮮であり、本梅川は鴨緑江である。(昭和十年以前)
■霊界物語の地名
霊界物語地名……相応の地名南高山……吉野ペテロ……神戸タコマ山……八重垣ヒマラヤ山……比叡山竜宮城……(?)テプロス島天保山……日本海霊鷺山……高熊山万寿山……亀岡檀山……朝鮮橄欖山……世継王山シナイ山………弥仙山コンロン……大台ケ原揚子江……桂川南高山……妙見山シオン山……山家天教山……富士山鬼城山……福知山新高山……高城山(位田の向)ニュージランド……沓島天山……伊吹山大江山……大江山青雲山……帝釈山竜宮海……地中海ロッキー山……鬼城山天道山……四尾山竜宮海……オーストラリヤとニュージランドの中間ウラル山……肝川割岩モスコー……京都エデンの園……位田常世国……八木長白山……半国山ローマ……大阪アーメニヤ……東京タコマ富士……愛宕山玉の井……穴太編者註=聖師の示された相応の地名=大本の教理に「アキツノトナメ」ということがある。至大天球即ち大宇宙の縮図が太陽系天体であり、太陽系天体の縮図が大地球であり、大地球の縮図が日本列島である。日本列島の縮図が奄美大島である。「大本は型の出るところ」であるから、世界にあることはまず大本にあるから、大本の中にあることは世界に顕現するから、『霊界物語』の地名は、「アキツノトナメ」の法則の上から理解すべきものである。特に注意すべきことは、「アキツノトナメ」の相似相応に国魂学上と地理学上があることである。
■日本の最後
問 「日本の最後はいつですか」王仁 「軍人内閣になったら」(昭和十年以前)
■神と人
九分九厘までは神様がつれて行かれるが、岸は人間が登らねばならぬ。(昭和十年以前)
■いざという時
いざという時には神様に霊をかぶせて頂くから大丈夫。(昭和十年以前)
■地震の時
地震の時は壁が落ちたら外に出る。それまでは家の中にいたらよい。地震が恐いようではいかぬ。恐がらないようにならねばいかぬ。(昭和十年以前)

■明日は大嵐
出口聖師が昭和十年十二月六日、綾部を出発して鳥取市の山川方の大本鳥取分所に一泊、七日に皇道大本島根別院に着かれた。しばらくして綾部から出口すみ子大本二代教主が別院に着かれると、「二代が来たから明日は大嵐だ」と語られた。雲一つない真っ赤な夕焼けなのだが、聖師が言われるから、大嵐だろうかと、大本の信者は思って、秋季大祭の日で困ると話しあっていた。大嵐は大本第二次事件の予言であった。昭和七年十二月二十日に建てられた聖師の歌碑には既に予言されていた。赤山の紅葉に映ゆる夕津陽の影黒々と庭をゑがけり 王仁除幕式の挨拶に聖師は「○国の腹の黒さを表現した」と説明されていた。したがって「赤山歌碑」は再建されなかった。十二月七日の聖師は夜おそくまで眠られぬ様子で、三六亭の奥の間でソバを食べて寝につかれた。中の間には二代教主出口すみ子様。入口の間には田村という老人と奉仕に来た女の信徒だけが泊った。三六亭は十二畳三間。奥の間の床の間には聖師が染筆された色紙が山積みされていた。歌祭の入賞者のために授与される賞品とされるものである。鳥取分所でもいつもとはことなり、夜おそくまで「話をしよう、話をしよう」と容易に寝につかれなかった。七日松江行きの汽車で由良で下車して由良分所に行く昭和青年会員たちを、いつまでもふり返って眺めていられた。
■大将が取られてしまう
八日の歌祭の準備に八重垣台の中央に四角の柱の四方に八雲の神歌をはり、その周囲に献詠歌の天地人のつぎに秀調、その回りに平調の色紙をめぐらせておくと聖師が出て見えて、秀調の色紙を一番外にめぐらされた上で「兵隊にまもらせておくと大将がとられてしまう」と教示された。(まさか翌日八日に聖師が逮捕されようとは誰一人も夢にも知らぬことでありました)
■昭和十年十二月八日、大本第二次事件おこる
昭和十年十二月八日の払暁午前五時過ぎ、島根県松江市の皇道大本島根別院の天井から折鶴をさげられた三六亭の奥の間に就寝中の、出口王仁三郎聖師を逮捕せんと、工藤恒四郎特高課長、坂根・松江警察署長の引率する数百名の警察官が急襲した。夜警中の大本の昭和青年会員は聖師を検挙せんとする警察官をとりまくのを「行って来るから心配しないように」と青年たちをなだめて、二代教主に挨拶して警察官にかこまれて、警察の自動車に乗せられて、検束された。証拠品として押収した中の玉串の入ったカバンを工藤課長は二代教主にお返しした。(参照)歌集『朝嵐』治維法違反容疑者としてけいさつへ拘置されたる師走の八日