救世主のあかしオリオン三星

 入蒙体験は、王仁三郎にアジアばかりか全世界の宗教協力の必要性を痛感させた。大正十四年五月、王仁三郎は世界宗教連盟を結成し、総本部を北京、東洋本部を亀岡天恩郷の大本本部におく。つづいて人類愛善の大義にもとづく世界は一つの思想と国際的な思想混迷の打開をうたって『人頬愛書新聞』を創刊。パリでは西村光月によって『国際大本』を発刊する。あい前後して支那・朝鮮・蒙古・ドイツ・チベット・インド・タタールなどから国際人の来訪が続いた。はじめて綾部に電灯がともったのもこの頃である。昭和二年五月十七日(旧四月十七日)、第一次大本事件は大赦令により原審が破棄され免訴となる。三の数字の三つ並ぶ昭和三年(一九二八)三月三日、大本では゛みろく大祭゛ をおこなった。 「昭和三年こそ、この世初まって以来五十六億七千万年に相当する年である」と王仁三郎は宣言。釈尊が減してから五十六億七千万年にして弥勒菩薩が下生するという仏典の謎に因縁ある数で、大本では五六七と書いて「みろく」と呼ぶ。「三月三日の桃の節句は変性女子(王仁三郎)にとっての因縁の日」とたびたび筆先にも現われたが、王仁三郎の生誕は明治四年旧七月十二日、昭和三年三月三日は旧の二月十二日であり、はからずも王仁三郎が五十六歳七カ月を完了する日となる。尋仁(王仁三郎) は必ず数運と天道の輪転に循(したが)いの壇訓の言葉がここでも生きてくる。だからといって、御簾(みす)の内にありがたく鎮座まします王仁三郎ではない。みずから宣教の陣頭に立ち、南は台湾・沖縄から北は千島・樺太・北海道と日本全国くまなく一巡、さらに二代教主すみをともなって朝鮮・満州へ。゛人類愛書゛゛万教同根゛の旗じるしのもと、教線は世界各地へとのび、人類愛書会もパリ・奉天・京城・サンパウロ・バンコク・メキシコに設置、その分所支部数も五六七カ所の吉数となる。亀岡本部・天恩郷には山陰随一を誇る印刷所を持ち、新開・雑誌・単行本・パンフレット類をつぎつぎと発行、文書宣教の威力を発揮する。昭和六年(一九三一)元旦、 王仁三郎は無気味な言葉をはく。「今年は西歴一九三一年でイクサノハジメ、皇紀二五九一年だからジゴクノハジメじゃ」(既出、歌に託した神の言葉の項の後部参照)この年九月八日、本官山山頂の神殿の破壊跡に石碑が三つ建てられた。中央の神声碑には「三ぜんせかいいちどにひら九うめのはな-・・・」の筆先が、右側の碑には大本教旨、左側の碑には「盛なりしみやゐ(官居)のあとのつる山にやまほととぎす昼よるを噂く」「よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男子の品は落さじ」の王仁三郎の和歌二首がきざまれた。「つる山」とは「桶伏山」とともに本宮山の別称であるが、前の歌は四年後の第二次大本事件におけるすさまじい神殿破壊を暗示する如き不吉な歌である。後の歌は王仁三郎がパインタラで死線に直面したときの辞世の歌」でやはりおめでたいとはいえない。この建立式のとき、王仁三郎は「これから十日後に大きな事件が起き、世界的に発展する」と語ったが、そのとおり十日後の九月十八日に満州事変が勃発、日本が中国大陸を侵略する最初の契横となる。碑石建立一カ月後の十月十八日、王仁三郎は「九月八日は大本にとって不思議な日であります。本宮山は一名桶伏山といって、大本教旨を書いた大きな天然石を彫刻したなりで時期が来るまで伏せておいて、蒙古入りをした。帰ってきてもまだ起こす時期が来なかったのであるが、その石を本年九月に入って、神さまからはじめて早く建ててくれいといわれて建てた。気がついて見ると、新の九月八日に建てあげていた。それから十日後の九月十八日には満州問題が起こるとあらかじめ言っておいたが、その通りに起こりました」と語った。昭和九年三月、『人類愛善新聞』は念願の百万部を達成した。同年七月、王仁三郎は昭和神聖会を結成し東京九段の軍人会館で発会式をあげた。統管に出口王仁三郎、副統管に内田良平と私の父・出口伊佐男が就任。「神聖皇道を宣布発揚して人類愛善の実践を期す」ことを綱領の一つにかかげ、国内の革新を目ざす国民精神運動団体であると規定した。これが大衆の共感を呼び、創立一年後には地方本部二十五、支部四百十四。開催された講演会だけでも二千八百八十九回、入場者計百万人に及んだ。その膨大なエネルギーは王仁三郎の当初の意図をはずれてしだいに右翼化、倒閣・現状打破へと傾いていく。ひそかに内偵を進める当局は、水ももらさぬ布陣をしいて息づまる激突の時を待っていた。地上の人類はそれぞれ天の星を負って生まれてくる。しかし多くは暗星で光を放っていないから見えない。大臣でも三等星か四等星、歴史上の人物では豊臣秀舌や西郷隆盛が一等星であった。王仁三郎自身の星はといえば、天の囚獄オリオン星座で、瑞(三つ)の御霊が千座の置戸を負って立つ姿だとみずからは言う。天に描かれた巨大な囚の字形に四隅を封じこめられた形の三つ星、王仁三郎の背にはまざまざとその印が大きな黒子となって刻されているのだ。オリオンは、ギ-シア神話に出てくるゼウスの弟で大海原を治めるポセイドンの子、海上を自由に歩ける狩の好きな美しい巨人であった。太陽神アポロンの妹・月の女神アルテミスに愛されたが、アルテミスは兄神アポロンにあざむかれ、海中を歩くオリオンを殺してしまう。気がついたアルテミスは嘆きつつその死体を天の星の中にとじこめてしまった。オリオンが海を治める神の子で太陽神と争.って星に囚われるなど、やはりスサノオノ命の宿業を暗示していよう。黒子といえば蒙古(ほくろ)では王仁三郎が支那服を誹(あつら)えたとき、慮占魁は支部で高名な観相学者をそっと呼び入れて救世主としての資格のしるし を調べさせたという. 結果は背の黒子も含め'三十三相を具備した天来の救世主とのことに驚喜して、盧をはじめ蒙古王貝勒(ばいろく)、 将校、馬賊の頭目たちが敬慕したようだ。当時は天下筋(手のひらの縦筋が中指の先まで通ったもの。天下を取る相という)が八本であったのが、間もなく十本(五天紋)になっている。みずから囚われの身となるべき運命を知りつつ、それに向って歩みつづけねばならぬ予言者は悲しい。昭和十年二月七日、郷里の亀岡市穴太の瑞泉郷において神聖神社の鎮座祭が大吹雪の中で挙行された。王仁三郎は参拝者に向かってこの大吹雪は神聖運動にたずさわるものにつき、 一つの暗示と警告である」と告げて重大な覚悟をうながしている。 三月に台湾における昭和神聖会の発会式に臨んだ王仁三郎は、その後各地からの要望にもかかわらず、亀岡を動かない。九月下旬、何を思ったのか王仁三郎は幹部・職員に対し、長髪の者は長髪を、髭をのはしている者は髭をそり落とせと命じた。驚きながらも一同は即座に服したらしい。高木鉄男は日記にしるしている。「剃髯列席の男子十四人、すでに髯あるもの一人もなし」十月六日には神島二十年記念参拝があったが、王仁三郎は「神島参拝は今年で最後かもしれない」ともらした。十月中頃、王仁三郎の厳令として、亀岡在住信者は一世帯、必ず一人以上、大祥殿(礼拝所)の朝夕の礼拝に出るようにと伝達され, 王仁三郎みずから祭主となって先達をつとめた。異例のことであった。十月三十一日、大本秋の大祭に第一回の歌祭りが盛大におこなわれた。この歌祭りは、王仁三郎の四十年来の夢であった。明治二十七年(一八九四)、王仁三郎数え二十三歳の年、園部で国学者岡田惟平に歌祭りの意義について教えられた。スサノオノ命がヤマタノ大蛇を退治してクシナダ姫を得、出雲の須賀に宮を作ったときにうたった。「八雲立つ出雲八(重)垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」が、和歌の始まりといわれる。一般的解釈は字句どおり、雲のわき立つ出雲の地に宮をたて妻を得た感動を歌ったものとされるが、岡田惟平はさらに特別の密意を読みとっていた。出雲はいずくも、八重垣は行く手をはばむ多くの垣、妻は秀妻すなわち日本の国、だからこの歌はスサノオノ命の嘆きと決意を示したものとなる。「イザナギノ命から統治をゆだねられたこの大海原、地上世界には八雲がたちふさがっている。どの国にもわき立つ雲や垣根が日の神の光をさえぎるばかりで、この世は曇りきっている。秀妻の国の賊(ヤマタノ大蛇)は退治したものの、さらにこの国を八重にとじこめてくるさまざまな心重垣、その八重垣をこそ私はとり払わねばならぬ」.スサノオノ命の心情を慰め、雄々しくふるい立たせようとして、クシナダ姫は伏せた桶の上に弓を結びつけ、その弓弦を両手に持つ梅の小枝で打ちひびかせた。それが古代楽器弓太鼓のいわれとされる。そのむかし村々では年にいっぺん歌祭りがおこなわれていた。スサノオノ命のこの神歌を書きうつした短冊を霊降木(ひもろぎ)とし献歌をしたためた八敬の色紙で囲む。さらに献歌の色紙が八重にとりまき、そのまわりをつぎつぎ歌でうずめる。平素からの村びと間のもめごとや怨み妬みもいざこざもすべて歌に宣り上げ、その歌の色紙で型どった八重垣を読み上げながら、一枚一枚とり除いていく。立ちのぼる心の雲、いっさいの罪けがれを水に流し、許しあい、村びとの心を和して神意をなごめる。村びとたちの歌の中には素朴な相聞歌が多かった。男から想う女に歌いかけ、女から返歌があればいっさいはそれで決まって、'生涯の伴侶となる。歌のことばは言霊(ことたま)であり、真言であってうそは許されない。この言霊をもって四方の八重垣をうち払い、'喜びもうたい上げる平和なゆかしい祭りであった。この歌祭りは源頼朝が鎌倉に幕府をひらいて武家の世となってからは絶えてしまう。藤原定家が小倉山の二尊院で歌祭りをしたのがおそらく最後であろう。今はわずかに宮中に歌会として名残りをとどめている。若き日の王仁三郎は、師に誓った。自分の手で必ず歌祭りを復興させ、スサノオノ命の志を継ぎますと。六十四歳になったそのとき、王仁三郎は許されたわずかの時を燃焼しきって岡田惟平との誓いを果たそうとする。かがり火に映える神苑の舞台上、冴えわたる弓太鼓と八雲琴の音色、年若い舞姫たちの奉納する須賀の舞、清しく宣り上げる歌垣のかずかずの献詠歌と、さながら幽玄な神代をこの地に顕現した。亡き師惟平翁の子息岡田和厚をこの日特別に招待している。翌十一月十一日、石川県の大本北陸別院で、秋の大祭と第二回の歌祭りが王仁三郎を迎えておこなわれた・。献詠歌の選には王仁三郎があたったが、このとき天位を受賞したのはのちに北国新聞社社長となる故嵯峨保二である。賞として嵯峨に与えた色紙はスサノオノ命の神歌であったが、王仁三郎はその末にこう書き加えるのであった。八雲立つ 出雲八重垣つまごみに 八重垣つくるその八重垣をいつかはらさむ万代を経て 弾圧の時は刻々と迫る。いま再び八重垣の内深く閉じ込められようとしているのは、まさにスサノオノ命の機関と自覚する王仁三郎であった。「…王仁三郎は『霊界物語』の何巻とか『月鏡』のどこそかと指摘して、心ある者に読ませたり(事件の予言が出ている)、当局のスパイ潜入を知らせるのに犬を抱いて写真にうつったり、芸の細かいところも見せている。当時大沢晴豊との問にはつぎのような問答がかわされた。『聖師さま(王仁三郎のこと)、また大本事件がおこりますか』、『どうしてもあるなあ』、『そのときは私もはいらねばなりませんか』、「そうだなあ、百日入ったらよい』後日談だが大沢は翌十一年に佐世保市で捕われ、ちょうど百日目に出所した。」(『巨人出口王仁三郎』より)十二月四日の真夜中、王仁三郎がひそかに亀岡・天恩郷のオリオン星座にちなむ月宮殿に入り、ご神体を他の石と取りかえるのを側近内崎照代が目撃している。これは厳秘とされ、他へはもらされなかった。翌五日、何事もなかったように王仁三郎は島根に立つ。島根別院では第三回目の歌祭りが予定されていた。