拝み屋的予言との違い

「それは買いじゃ、まちがいない。神さまがそうお告げになる」 ありがたい御神託の断定が下るやAは平伏しお礼をはずんで帰っていく。同じ相場について入れ違いにうかがいにきたBに、教祖は重々しく伝える。「絶対売りじゃよ。神さまがそうおっしゃるのじゃから」  平然と正反対の予言を売る教祖。これは現世利益が看板の、ある新興宗教の実態である。 もともと゛売り゛ と゛買い゛の二つしかない相場だから、どっちにころぼうと確率は五〇%だ。裏目に出て泣きをみる者が出るのは当然。そのため「神さまがそうおっしゃる」とちゃんと断わって責任は神にかぶせてある。 当たった人が大感激で、さらに謝礼を包みあらたかな御霊験を宣伝してまわる。こうしてうかがいに来た半数さえ信者になっていけば神さま商売大繁盛。これがこの教祖の死ぬまで止められなかった甘い手口であった。 このようなインチキ予言は論外の沙汰であっても、意外と世間に幅を利かせて存在する。むかしから大小無数の神がかりが世界中に現われて予言が行なわれてきた。それらの筆頭とも言うべきものはなんといっても世の終末の予言であろう。 二千五百年前に生まれた釈迦は、 「自分の没後、世の中がだんだん乱れ、正法の時代・像法の時代をすぎて末法の世が来る。末法の世には三災七難があり、内乱、戦争、悪病、飢饉、風・水・火の天災地変が起こって世の中が暗黒になる。そのときみろく菩薩があらわれて永遠平和の極楽世界をつくる」と予言した。 二千年前の『新約聖書』中の「マタイ伝」や「ヨハネ黙示録」などは「世の終わりの前兆は戦争と飢饉と地震と迫害と偽予言者の横行などであり、のち宇宙的変動が起こって終末がやってくる。そのときキリストが再臨して最後の審判となり、悪魔は焼き滅ぼされ神の選民によって地上に天国を建てる」と予言した。 またユダヤ教でも、世の終わりにユダヤ人の中からメシア(救世主) があらわれ、その統率のもとにイスラエルは世界を征服し、諸民族の不義は裁かれ神の国が地上に実現されると予言する。  メラネシアやポリネシア、アフリカの未開民族の間にも、また、アメリカインディアンやエスキモーの中にも、世界の終末と死後における最後の審判は神話や伝説となって信仰され、そこには必ず゛復活゛の思想が語られる。 古代のほとんどの諸宗教のなかにもこの形は現われているが、ゲルマン神話やギリシァ・ローマ・ペルシァの宗教にも明らかであり、エジプトのピラミッドにも終末的予言が刻蔵されているといわれる。哲学者ヤスパースは゛暗号解読゛ という独特の用語を使い、各民族に秘められた神話の読み方を教えている。 わが国の古典『古事記』の神話の中でも「天の岩戸ごもり」は過去を語るのみでなく、澆季(ぎょうき)末法の世、いわば世の終末の予言と読みとれよう。高天原では日の神の岩戸がくれを招いたため「是に万の神の声は五月蝿(さばえ)なす満ち、万の妖(わざわい)ことごとに発(おこ)りき」という暗黒の状態に立ちいたるが、゛天の岩戸開き゛ によるアマテラス大神の再現によって「高天原も葦原の中つ国もおのづから照り明りき」となる。 岩戸がくれの原因を一身に負って裁かれる悪神スサノオノ命は、根の国に追放される。また多くの信徒数と財力を誇る天理教でも、教祖の中山ミキは天変地異による世の終末と神の支配を予言している。 なぜ、こうまで洋の東西を問わず世界の神話や聖典が゛世の終末゛→ ゛最後の審判゛、→゛救世主出現゛→゛理想世界゛ と同じパターンの予言をくり返すのか。そこには何らかの一つの強烈な意志があって、時代を超え国を超えて世界の人類に執念深く言触(ことぶ)れているのである。 事実それらの予言はひじょうに大きな文化的、社会的影響を与えて今日にいたっている。しかし世の終末はまだまだ遙(はる)か先のこととしてわれわれはその実現を確認することなく死んでいくように思っている。 ところが大本の゛筆先゛ (後述)は、その時をつかまえぐっと足元まで引き寄せてしまったのだ。<この世は強いもの勝ち、われよしの悪魔ばかりの世であるから、このまま先へ行ったら世界は泥海になって滅びるほかはない。そこで神が表にあらわれて善と悪とをたてわける。三千世界を大洗濯し新つに立替え立直して、世界を一つに丸め、万劫(まんごう)末代つづく神国の世にいたす。 しかしそこへいくまでに越えねばならぬ大峠があるから、人民は一日も早くまこと一つの神にめざめよ。改心できねは、人民が三分にへるような絶体絶命の世にいたるであろう>  要約すれば、これが大本の予言警告のキイ・ポイントである。<この神の申したことは一分一度ちがわんぞよ。毛すじの横はばほどもまちがいはないぞよ。これがちごうたら神はこの世におらんぞよ>と神の権威にかけて断言する。 明日、明後日、一・二年さきの予言をすれば天才か神さま扱いでもてはやされても、十年、二十年あるいは百年先の想像外の未来を見通せば頭がへんだと危険視される。 いったい予言とは何か。人間以外の何物かが人間を通じて発するのか、あるいは人間の頭脳のどのようなメカニズムによって生ずるものなのかといった疑義がまず問われ、それには脳生理学や深層心理学、さらにはコスモロジー(宇宙学)といった近代科学の方法を駆使し、多くの実証的事例を採集しつつ鋭い感受カと判断力によって解明せねばなるまい。 しかしそれは私の専門外であり私には荷が重い。私の五官に触れ得る舞台゛大本゛ の内外を誤りなく語ろうとするだけでも、私にはかかえきれぬほどの重量なのであるから。    未来のことを言い当てるのが予言ならば、天気予報や易断、株や相場の予測の発表なども一種の予言であろう。しかしこれは物事の因果関係を過去の体験にもとづき人知を働かせて予測するので、このような人間の理性の所産は予言からはずしておこう。    ここではカリスマ(奇蹟をほどこし予言を行なう神賦の資質)的人物による予言に限定する。では予言者たちはどうして未来を予知するのか。一 本人の意識にないことを言葉で発する場合。(天言通)一 本人の意識にないことを文字に記す場合。(自動書記・筆先)一 目に見えぬ何者かが囁いて教える場合。(天耳通)一 未来のことがまぶたに写ってきて予知する場合。(天眼通・霊眼)一 ひらめきによる予感の場合。(第六感)一 夢によって予知する場合(霊夢・神夢)     では、これらの超自然的現象が予言者にかかるカの仕業だと断定できるであろうか。すべての霊能を自在に駆使したと思われる出口王仁三郎の天言通を一例としよう。 この一人物の中に、゛人間としての時間゛ と゛神に占有された時間゛ が交互に、あるいは同時に共存していたのは確かである。彼が何かに激しい怒りを示したときなど、豊かな髪が根元から逆立って首のあたりがふくれあがる。  「霊がここにたまって・・・言葉が出ていこうとする。それを出したら大変なことになる」と人間心で懸命に霊と争っているのだ。憑神が人間界の不都合に対し強烈に忠告しようとするのだが、それをそのまま人びとに発したなら、その時点の社会に影響を及ぼし過ぎるとの、人間としての判断による抑制なのであろう。このような神と人との鮮明な現われは、出口なおの場合でも同じであった。    筆先によって神の言葉を書きしるす以前のなおも、腹の底から強い勢いで発言するため、押えても押えても大声となり隣近所から狂人かと誤解される。なおの抗議によって、やがて神は天言通を゛筆先゛ へと切りかえるのである。 憑神はただ無差別に人に移るのではない。かかられる側の人物はそれに相応した因縁と魂のバイブレーションをもっていなければならない。そうでなければ同調感応に堪え得るものではないのである。    王仁三郎やなおについては、「天であらため地であらためた血統」であり、「天にお一人、地に一人かわらぬ身魂の性来のやまと魂のたねが. 一粒かくしてありた」身魂であると筆先は書いている。この二人は別格の帰神として、当時の大本にはのちにも語るように、覚えきれないほどの正邪両面の神がかかり、それらの巻属である竜神・天狗たちが家族の一員であるかのように出入りしていた。その中でも、ご気楽で邪気のない天狗さんを紹介しておこう。 第二次大本事件の昭和十六年八月二十三日、大阪控訴院に提出した上申書に出口すみ (王仁三郎の妻)は素朴に書いている。「先生(王仁三郎)の弟で上田幸吉という人がありますが、神さまが乗り移って来られますと少しも仕事をせぬようになります。大変気軽な天狗さんで、讃岐の金比羅さまの山にいられる松岡というお方ですが、滑稽なことばかりをして遊んでいられました。(明治三十四年〜大正末期頃まで)松岡さんが来られますと (幸吉さんは)一月でも目を明けたことがありませぬ。長い棒を持ち剣術ばかりしています。尾根の上、大木の枝の上でヤアとどなり、眼をつむりたままで逆立ちをして遊び、お腹が空くと帰りてくる。さあ松岡さんがくるからひとつ道にいたずらをしてみようと思い、通り道に大だらいに水を容れて置いてみましたら、 『危いぞ』なんて言い、ぽいと飛び笑って といといと帰りて御飯をたべる。 お菜も目の明いておる者と同じことであります。ある日のこと鏡をこっちから見せましたら『おう、よく映るのう』といわれました。使いに行ってもらいますと、五里位は一時間で帰りました。割にのん気な神さまで、みなが遊び友達にしておりました。まだ若い神さまとみえました。ある時、黒田きよさん(初期の大本信者)が家出をして行き場が知れず、親兄弟が心配をして伺いにこられました。 松岡さんが遊んでいたので伺いましたら、じっと見ていられましたが(目を閉じたままで)、『大勢の人と糸を引張っておる』といわれました。五、六日すると京都の糸屋にいるという手紙がきたのでした。『松岡さん何か下さい』と(すみが)言いましたら十銭玉を下さったことがありました。このお金どうして持っているのですかと聞きましたら『拾った』といいます。この上から見ると、まだあそこにも落ちておるというて捜しているのがよく見えました…」 この天狗については他にも何人かが書き残しているが、屋根の上から落ちている地上の十銭玉を引寄せて、自分の(幸吉の)髪の中からとり出したりもしたらしい。 王仁三郎は幸吉に天狗を憑けたまま出雲旅行へ連れて行き、道案内や天気予報係などに使ったようだ。すみの命で、幸吉は夜の山道などよく使いに行ったが、道にふさがる大きな「こっとい牛」をぽいと道脇に投げてとぶように走ったという。 晩年の幸吉翁を取材したが、松岡や河原林といった天狗にかかられると、その期間目をつぶったなりで自分はいっさい感知できなかったようだ。もっとも高い木の枝なんかに逆立ちしていて、ふいに自分をとり戻したりしたものなら、たちまち墜落するのがおちであろう。 こうしてみると何かの霊が人にかかってその肉体をまったく占有するというのも事実としか思えない。 ゛神がかり゛ というと現今ではよくない意味に使っているようだが、それは高い次元の神が人間に依り憑くことはごく稀であって、ほとんどはいいかげんな低級霊が知能度の劣った人間に取り憑き、支離滅裂なことを口走るからだ。アタマのおかしい人の発言や動作に対してあいつは神がかりだと言うようになったのも止むを得ない。 新興宗教の教祖といわれる人も現在多数存在するが、予言まがいのことや病気なおしでおかげをばらまき、信者を引き寄せるのは動物霊や低級霊たちにも充分可能なのである。数多くの予言の実例を考察してみても、時期を断定した予言は九十九% (あとの一%は私の知らない事例があったとして)あたっていない。 なぜあたらぬのか。それには霊界のしくみを知る必要がある。霊界と現界とは合わせ鏡である。といっても、霊そのものの存在を認めたくない人が多かろう。たしかに生命や霊魂は肉体のどこを解剖しても見ることはできぬ。肉眼で見えぬから存在しないという理屈はもう小学生でも通らない。物質的存在である原子や電子は目で見えなくても厳然として存在する。むしろ根源的なものほど、目では見えない。霊魂が超物質存在であるように、霊界もまた超物質世界であり顕微鏡や望遠鏡でもつかまらぬ。 物質界を可視界・現界・形体界などと言い、対する超物質世界を不可視界・霊界・幽界・心霊界などと言う。霊界は現界に即して一体的・同時的に存在している。人間が霊体結合して生存するように、宇宙は霊界と現界が一体となり結合して成り立っている。 霊魂は霊界に属し、肉体は現界に属する。いわば波長の違う存在だから、霊魂や霊界が肉体の五官にふれぬのは当然である。 だいたい人間の肉体的五官というものは、この宇宙のほんの限られた一部しか触れることはできぬ。王仁三郎は「現実世界はすべて神霊世界の移写であり、また縮図である。霊界の真象をうつしたのが現界すなわち自然界である。故に現界を称してウツシ世というのである。これをたとえば一万三千尺の大富士山をわずか二寸四方ぐらいの写真にうつしたようなもので、その写真がいわゆる現界すなわちウツシ世である」と言う。 神霊界で起こったことが現実界に必ずうつってくるとして、問題はその時間の遅速であろう。霊界の時の流れは霊の情動によって左右されるものだから、現界的な時間・空間とは異なってくる。だから、霊眼で神霊界のできごとを見た場合、過去も現在も未来も並列的に写る。それがいつどんな順序で現界にうつるのかは、人間の判断を越える問題である。 たとえばいま空に浮かんでいる雲はどこからきてどこへ行く?  宇宙間一物といえども 原因なく因縁なくしてあらわれるものはない。けれどその真の原因さえ容易につかむことはできない。まして、あの雲がどのように変化するか。その未来をかりに霊視したとしても、それは何分後何日後にあらわれるのか、どうして予測できよう。 世の終末の大予言にしてもはっきりした時期を明かしたものはない。仏教でいうみろく菩薩の出現が五十六億七千万年の後としてあるのも、寓意であって実数とは思えない。ノストラダムスが一九九九年七月の人類滅亡を本当に予言しているならばまちがいなく悪霊による妄言と思ってよい。 時期を切った予言といえば数(十)年前の予告ビラ騒ぎをまだご記憶の読者もあろう。昭和四十九年(一九七四)六月はじめ、大阪府八尾市の某新興宗教団体が不穏なビラ約二十万枚を京阪神各地、東京、名古屋、四日市にわたってばらまいた。ビラは週刊誌大の二枚一組、一枚は墨の手書きで「聖霊降りて大警告を発す・来る六月十八日午前八時大地震起る。一同心して一時も早く大都市より安全地帯に分散せよ」と大書したものを製版。 もう一枚は活字印刷で、大地震対策などのこまごましい注意書きである。これが新聞各紙で報道され全国の話題をさらった。息づまるその日その時刻はこともなく過ぎて、教祖某氏のみ予告時間帯の終わる直前、本部神殿に坐し刃渡り五十センチの日本刀で割腹、血まみれとなって救急車で運ばれた。 予言を発表した教祖に悪意はない。多くの人々に伝えて災害を少なくしたいという善意からであったろう。予言がはずれれば教団が崩壊するだろう危険を犯してまで突っ走り、あげくに責任上自殺せねはならところまで自分を追いつめてしまった。 日時を切った予言は邪霊からのもの という原則を、不幸にしてこの教祖は悟れなかったのだ。大本の歴史の中にもそういった事例があるが、隠さず後述するつもりでいる。本書でとり上げる予言・確言は大本の二大教祖出口なお・出口王仁三郎によって示されたものだ。帝国主義の一色に染めつつあった政府当局にとって、この耳ざわりな予言は危険きわまりなかったであろう。二度にわたる近代宗教史上未曽有の大弾圧は出口なおの墓を三度まで暴き出し、王仁三郎とその一門を獄舎に封じこめてしまった。 私は大本の成長過程で日ごと発表されていく予言群と、つぎつぎ適中実現していく状況を照らし合わせて「なぜ時代がそういう変化の過程をふまなければならなかったか」を推理しつつ未来を展望していこうと思う。