弾圧開始! 第一次大本事件

 大正八年十一月十八日早朝、長髪をきりりと紫のひもで締め、白鉢巻にたすき十文字、たっつけ袴で名馬金竜・銀竜に打ちまたがった青年志士の深町・木嶋は、風のように福知山を出て沿道の人々を驚かせつつ東へ東へと疾駆する。目的地は明智光秀の旧居城亀山城祉、「福知山出て長田野こえて駒を速めて亀山へ」の福知山音頭を地で行ったのだ。何のためになど命じた王仁三郎のはかは誰も知らない。光秀の霊を祭った御霊神社のある明智の旧領地福知山から、光秀の居城あとへと早馬をとばすからにはへ危急存亡をかけて元城主の御霊を迎えたのでもあろうか。 同じ朝、王仁三郎は綾部駅へ急ぎ、たまたま参拝のために汽車を下りてきた東尾吉三郎と出会いがしらに声をかけた。「待っとったで。あんた金持ってきたやろ。さ、いっしょにきなはれ」きょとんとしている東尾に有無をいわせず、王仁三郎は次の汽車で引き返えさせ、ともに亀山城址へと向かう。亀岡は廃藩置県まで亀山といったが、王仁三郎の少年時代にみる夢は天下五城の一つとされた明智の城、白壁映ゆる天守閣であったのだ。今は荒れ果てて雑木と瓦磯の山に狐狸、大蛇がすむばかり。ただ天守閣跡には光秀手植えと伝えられる大銀杏が天下取りの名ごりを留める。光秀没後はどの大名が城主となっても崇りが激しくて住むことができず、居城は外に構えて亀山城は無人となっていたらしい。深町ら二騎が到着するや王仁三郎は旧天守閣跡にのぼって、亀山の名の由来ともなる亀頭の形の亀岩上で天津祝詞を奏上、天の数歌をのりあげて一帯の邪気を払った。それから二青年に命じてこの城地の持ち主、田中源太郎邸に向かわせ買収交渉に人らせた。彼自身は東尾を連れて穴太の産土・小幡神社に向かい'社前に祈願を捧げる。まるで討ち入り然のかっこうで馬を乗りつけた二青年には、貴族院議員田中源太郎もさぞ驚いたであろう。実はこの日は、京都府が土地収用法を適用して城跡を二足三文で強制買収しようとし、さんざんこじれたあげくのぎりぎりの限度であったのだ。売値は三千円、即座に半金を手付けとして支払うというのだから、田中の番頭も手を打った。二人は穴太に駆けて王仁三郎に報告、ただちに感謝の祝詞を奏上、契約は即日に成る。王仁三郎は一文も持ってはいない。このとき東尾が懐中していたのが、ぴったり三千円であったのだ。思わぬ大金がころげ込んだので、神さまの御用に役立てようと汽車に乗ったその日であった。城祉一万三千五百坪、登記完了は十二月六日。何事も神示のまま、霊主体従的遂行の結果であろうが、電光石火といわずして何であろう。宣教は東京、京都、大阪へと都心にものび広がって、明治、専修、慶応などの各大学講堂はじめ各地の講演会場はあふれんばかりの盛況である。綾部の神苑拡張整備も本宮山を入手して一段と進み、つぎつぎと建物も造営される。大正九年(一九二〇)には建坪四四四坪、五六七畳敷きの拝殿みろく殿が竣成する。亀山城地は王仁三郎によって天恩郷と命名された。大本では教祖が二人(出口なお・王仁三郎)。教典が二つ(大本神諭・霊界物語)。そのうえ二大聖地、綾部・梅松宛、亀岡・天恩郷を擁したのだ。梅松苑は祭祀の中心地で天国を、亀岡天恩郷は宣教の中心地で霊国を、それぞれ型として地上に移写したと王仁三郎はいう。教勢が加速度をもって拡大するにつれ、世間の大本攻撃もまたおとらず激化する。新聞・誌は競って大本批判の記事をのせる。警察当局がそれらに注目せぬはずはなかった。波紋は波紋を呼び、さらにもう一波乱、あっと驚異の目をみはらすものに『大正日日新聞社』の買収とその経営がある。『大正日日』は大正八年十一月、大阪梅田に創立された新聞社で、規模と内容は『大阪朝日』『大阪毎日』と比肩されるものであり、当時の一流ジャーナリストが参加していた。資本金二百万円(当時の朝日新聞社の資本金百五十万円)でその発足と活動は『朝日』・『毎日』の強敵と見られた。しかし『朝日』・『毎日』の強固な販売網は容易に破れず、経営はしだいに困難となり、一年たらずで身売りという逆境におち込んでいった。

大正九年八月五日、王仁三郎は『大正日日新聞』買収仮契約をすませ、十四日には本契約が成立した。一宗教団体が時事新聞を発行するなど世界的にも珍しく、もちろん日本では前例を見ない。しかも朝・夕刊発行の全国紙である。大本の手による復刊第一号は九月二十五日、発行紙数四十八万。朝日・毎日の発行紙数を上回っていた。「新聞で知らせて下されよ(『神諭』)」の命ずるままに社長浅野和三郎以下、立替え立直しの論陣をこれでもかとばかり天下に訴え出したのだから当局があわてたのも無理はない.こうして大本は、みずから火中へ突き進んでいくのだが、大本事件史を書くのが目的ではないから要点のみ紹介するにとどめよう。

大正十年二月十二日、原敬内閣の手によって第一次大本弾圧が下る。不敬罪と新聞紙法違反である。天皇制国家の聖なる起源、〞紀元節″ の栄光を傷つけぬためことさらその翌日が選ばれたのであろう。大正日日新聞社に起臥して筆をとっていた王仁三郎は当直の者に「ちょっと行ってくる。誰もこなくてよい」と言い残して静かに検挙されて行った。

刑事は私服であり、王仁三郎の態度もおだやかだったので、ほとんど気づいた者はなかった。「…王仁三郎は弾圧下の本部の状況を手にとるように見とおしていた。『王仁は神のお告げをきいたんや。二月十二日の朝、藤沼が疾風迅雷の勢いで大検挙にのりこんでくると、王仁の周囲には多数の純情な青年たちがいるから、生命がけで抵抗するだろう。神聖な聖地をけがしてはならぬし、一人の犠牲者もだしてはいけない。官憲と争うてみても今更はじまらぬ。和の精神を本にしてなりゆきにまかしたのだ。検挙の日がわかっていたから、綾部を抜けだして大阪にきていたのだ』

また『藤沼は純朴な一徹者だ。大臣にまではならないが、警視総監や知事くらいには出世するだろうよ。藤沼は王仁のためには恩人。大本を大掃除してくれたのやからな』と語ったという。(近藤保雄談) 余談になるが藤沼は茨城県・新潟県・東京府知事および警視総監を歴任して第二次大本弾圧直後の広田内閣で書記官をつとめたが、ついに大臣にはなれなかった。」(大本教事件)

大本が比較的平静であったのは、すでに『神霊界』に発表された神諭や王仁三郎の言葉の中に弾圧を暗示するものがあり、これも神の経綸の一段階と受けとめたからである。

「この大本は世間から悪く言われて、後で良くなる神界の経輪であるぞよ」(明治三十三年旧一月七日) さらに具体的には「三年先になりたら余ほど気をつけて下さらんと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は変性女子に取りては後にも前にもないやうな変りた事ができてくるから、前に気をつけておくぞよ」(大正七年十二月二十二日)「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」

(大正八年一月二十七日)

辛の酉は大正十年にあたる。紀元節に王仁三郎の拘引状が発せられ、翌十二日に検挙。

「四四十六の花の春」は大正十六年、すなわち昭和二年五月十七日に免訴、事件が解消す

る。そして「凡夫の耳も菊(聞く)の年」で、当局による事実無根の報道まで交えた新聞各紙はおもしろおかしく大々的に扱い、立替え立直しの予言は万人の耳目をそばだたしめたこと、旧九月八日には王仁三郎に対し、「神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよJとの神示が出て、大本の根本教典である『霊界物語』の口述が示唆される。

同日未明、綾部本部に踏みこんだ判事警官ら二百五十名に対し、大本草わけの幹部、四方平蔵らは平然と応対、こんな挨拶をする。「神さまもお待ちかねでござります。教祖さまも私どもに『警察から調べてもらわんと疑いがはれんので、神の仕組がおくれて世界の人民が永らく苦しむ』と前々から申されていました。取調べが十年おくれております」『大阪毎日』紙上に載った出口すみの談話も同じ調子で、 「これもみな神さまのお仕組でございます。かえって大本教の真相が世間に知れるのであろうと喜んでおりますので・・・・・・」

『神霊界』は大正十年三月以降、「筆先の裏まで目を徹すようでないとなかなか判りはいたさんぞよ。世界の大峠がくるまでにこの大本に大峠があるぞよ。大本のことは神界の仕組であるから--」などという明治三十年頃の筆先を抜粋し、それとなく信者に注意を与えた。『大正日日新聞』も官憲の不当弾圧や社会の攻撃とたたかい、勇敢に信者の主張を代弁したが、刀折れ矢つき二年足らずで終幕を迎えた。王仁三郎と浅野和三郎が予告もなく責付出獄したのは、大正十年六月十七日午後であり、午後十時頃には百二十六日の獄中生活にもかかわらずへ元気な姿で帰綾した。九月十六日に大本事件の第一審公判が京都地方裁判所で開廷され二十七日に終了。十月五日に判決があり、王仁三郎に不敬・新聞紙法違反の最高刑である懲役五年、浅野には不敬罪で十カ月、

名義上の『神霊界』の発行・編集・印刷人であった吉田祐定は禁固三カ月の判決であった。

開廷から判決まで二十五日、事実審理はわずか二日という権力側の一方的裁判を不服とし

て大本側の即日控訴、検事側もまた浅野の量刑を不服として、公判でのたたかいは大阪控

訴院に持ち越される。

十月十八日(旧九月二十日)旧九月八日より神霊のきびしい督促を受けていた王仁三郎は

新教典『霊界物語』の口述にふみ切った。ほとんど布団に横臥したまま、一冊の参考書も置かずに語り出されたのを、筆録者谷口正治らが原稿用紙に書き止めていく。 一くぎりつくと筆録者が読み上げ、あやまりがあればその場で王仁三郎に訂正される。口述の始まる前、三十分ぐらい王仁三郎はイビキをかいて休むときが多い。さめるやただちに語り始め、言い直しもよどみもなく、朝から夕方、さらに夜に及ぶこともしばしばである。疲労すると口述は止まらぬのに、イビキまじりとなることもあり、物語の場面が寒帯地方なら寒がって夏にも炬燵を入れる。熱帯地方に移ると蒲団をはずして団扇を用う。登場人物が苦痛を受けると王仁三郎も苦しむという霊感状態のまま続けられる。ときには過去の霊的体験を頭の中で整理しながら人間的意識のままに口述する場面もあった。

一巻は百字づめ原稿用紙千二百枚。はじめのうちは筆録者の不慣れのためか一巻の口述

に十日前後がついやされたが、慣れるにしたがって速度が上がり、ほとんど三日で一巻が

つくられていく。第四十六巻はわずか二日、超人間業のスピードである。大正十年は十月末からで四巻、大正十一年は四十二巻、大正十二年は七月までに十九巻。その後はぼつぼつ出されて、昭和九年までに八十一巻八十三冊の出版が終わった。全巻を通じて百字づめ原稿用紙十万枚という大長編物語である。

『霊界物語』は既成の教典と異なり、読みやすい小説的形式である。内容は宇宙創造から主神の神格・神々の地位因縁と活動、大本出現の由来、神と人との関係、霊界の真相、世界観・人生観・哲学・宗教・政治・経済・思想・教育・芸術などあらゆる問題を含んでおり、いたるところに密意がちりばめてあるため、大予言書ともいうべき特色がある。浅く読めば実に浅く、深く読みとれば底なしに深いのだ。王仁三郎は「五十六億七千万年をへて弥勒胎蔵経を説くなり」とうたっている。

浅野和三郎らを暴走せしめ混迷におとしこんだ〝明治五十五年立替え説″は、実は大本自身の立替えを指し、その完成の日と思わせた三月三日・五月五日については『霊界物語』第二十二巻の総説において絵解きをしている。

「--非は理に克たず、理は法に克たず、権は天に克たず、天定まって人を制するてふ真諦を、神のまにまに二十二巻まで口述しおはりました。神諭に日ふ。『三月三日、五月五日は、変性女子にとりて結構な日柄である云々』と。いよいよ大正十年九月八日に神命下り、十日間の斎戒沐浴ををはって、同十八日より口述をはじめ、大正十一年壬戌の旧三月三日までに、五六七の神に因みたる五百六十七章を述べをへ、つづいて五月五日までに瑞月王仁に因みたる七百十二章(註・王仁三郎の誕生日は旧七月十二日)を惟神的に述べおわりたるも、また神界の御経綸の豪も違算なきに驚嘆する次第であります…」大正十年十月二十日(旧九月二十日)、当局は本宮山上の神殿の破壊工事に着手した。すがすがしい神明造りの神殿はこの年七月二十七日、拝殿は八月に完成したばかり。ともに木の香もかおる真新しさなのである。建築費三十九万、地均し・付帯設備もふくめ六十万円という巨額の出費は、信徒たちの神に捧げた真心の結晶であった。王仁三郎が申し渡された破壊の法律的根拠は明治五年の大蔵省通達「無願の社寺を建立すべからず」という明治憲法発布二十年前に逆のぼる、忘れられたカビくさい諭達であった。事件が起こった時点では、本宮山拝殿などまだ上棟式後二カ月を経たばかり、なぜ営々と築き上げるのを見ながら、仕上げを確かめてこわしたがるのか。「あめつちのしじまの中に虫の声 わがすすりなき川のせせらぎ」。前々日、神殿取りこわしのため大神さまの御昇神を秦上した斎主出口直日の歌である。破却開始とともに何鹿郡から総動員された「三千五百名の在郷軍人」(大阪朝日新聞)が本宮山下の小学校に集合し、行進ラッパで附近を練り歩いて威圧した。午前中は瑞垣を午後一時よりは手垢ひとつついていない神殿を破壊し始める。和知川河畔松雲閣で『霊界物語』口述開始より二日目に入っていた王仁三郎は、このラッパの音と神殿破却の第一槌をどんな思いで聞いたのであろう。しかし神殿に鎮座された御神体は単に神籬(ひもろぎ)だけであった。すでにこのことを予期していたのか。『神霊界』大正十年一月号、つまり破壊の十カ月前にきっちりこの日この時が発表されている。王仁三郎執筆の「好き寄せ集」の一文に切紙宣伝(半紙一枚を一定の方式に折り、ひとはさみで切り離すと九枚の紙片を得る。この紙片を組み合わせて文字を得、大本の権威を証明する方法)の紹介がなされ、さりげなくこう結ぶ。 「さて、この二大勢力(註・官憲と大本か)が衝突するのはいつかと見ると、明らかに大正十年旧九月二十日午後一時と出る」金光教教祖川手文治郎はかねて「自分は新と旧と一致する十日に死にたい」と言っており、はたして明治十六年十月十日(旧九月十日)に昇天.本官山神殿破壊は十月二十日(旧九月二十日)、第一次大本事件が免訴となるのも昭和二年五月十七日(旧四月十七日)といずれも新旧が一致する。法廷ではすべては神命のままにと一貫した態度の王仁三郎であった。一方、上に立つ神、大将、伏字○○などを「天皇」と自白させるべくせまる訊問に浅野和三郎はひるまず答える。王侯・君主・その中には天皇も含まれるが、正しき神への信仰に立つ自分は、国祖の神示に対して天皇に不敬となるとは思わないと。けれども実兄海軍中将浅野正恭までを巻き込んで天皇への゛不敬゛ の烙印を押され、知人・縁者から迫害される浅野の苦悩は計り知れぬものがあったろう。人類三分になる立替えはこず、逆にわが身が立替えられようとは。浅野の内部から立替えの側面が抜け落ちると、あとは急速に冷めていった。教団財政も危機にひんしていた。切迫する立替えに心を奪われて経営面に手のゆき届かなかった大正日日新開は、莫大な負債をかかえ込んでいる。加えて王仁三郎との意見のくいちがい…。彼に残るのは鎮魂帰神によって得たしたたかな神霊世界への手応えであろう。これを学者らしく科学的見地から裏づけて、世界の心霊科学者と手を握っていこう。大正十二年四月七日、心霊科学研究会を設立した浅野和三郎は、鳥取で『霊界物語』を口述中の王仁三郎夫妻の留守の間に、家族ともにひっそりと綾部を引きあげる。東京に落ち着いたばかりの浅野一家を待っていたように関東大震災が襲うのだが、運命は皮肉である。昭和十二年に没するまで彼は生涯を神霊研究に捧げている。生長の家の主宰者・谷口正治(雅春)もまた立替え切迫を信じた一人であり、浅野の直系として理論活動を展開していた。谷口は書く。 「天地は審判の火に焼かれている。戦争と飢饉と疫病とは地上に恐るべき勢をもって氾濫している。世界風邪はどうであ.ったか? 食糧の欠乏はどうであったか。大火災の頻出はどうであったか。新聞紙は露都の食糧欠乏甚しく…人は人を共食し、人肉秘密にて販売せらると報じている。これでもいよいよの時でないといふのか」(大本信徒の主張収録)また、のちに回想して記す。「大本教祖の筆先、仏説弥勒下生経と基督教の聖書とを相並べて最後の審判の日を研究していた私は、周囲の神懸りたちの興奮した雰囲気と、自分自身の研究とに巻込まれて、やはり最後の審判の正念場は大正十一年三月三日、五月五日と思えるのであった」(生命の実相六巻)やがて谷口もまた大本を去る。『聖書』にも造詣の深い浅野や谷口らが、「その日その時を知る者なし、天の使たちも知らず子も知らず、 ただ父のみ知り給ふ」(マタイ伝二四章三六節)という語や「このこと(天機に属すること)はなおにも知らさぬぞよ」との筆先の語句をもっと謙虚に含味して立替え立直しは天機に属することであり、人の憶測の及ばぬことを知るべきであった。「天災がないというてのえらいご不足、天災が早うありたらどうするつもりざ。世界はつぶれても世界の人民がみななくなりても、我さえよけらよいという精神。改心いたすがおそくなりて、助かるものも総ぞこないになることになるぞよと申してあるが、いろいろ焦るよりも松心でおりてこの方の申すようにしておりて、仕組どおりの御用いたせば、世界へ早うわかりて、いろいろこのなかもこれだけ苦しみいたさずに、ものごとが勇みてでけるぞよ」(明治三十八年旧三月九日)国家権力の弾圧は、踏まれても叩かれても立直しする不屈の魂を選び抜き、去るべきは去らせて、大本を脱皮させる。新教典『霊界物語』の口述もそうであるが、王仁三郎は大正十二年六月には国際補助語エスベラントを大本に採用、十一月にはみずから『記憶便法エス和作歌辞典』を即興的につくり上げるなど、その普及に大きな役割をはたす。翌十三年二月十三日、責付出獄の身で王仁三郎はひそかに日本を脱出、蒙古に渡る。従う者'、植芝盛平(合気道創始者)ら三名。「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり。事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今正に醍めんとす」(遺言『錦の土産』)満蒙独立を夢みる満州浪人や盧占魁将軍のひきいる馬賊らが続々と王仁三郎の傘下に加わる。王仁三郎の発揮する霊力や奇跡的なできごとが伝わり声望が高まるにつれ、蒙古平原に馬を進める一行はふくれ上がっていく。軍閥とラマ教の搾取に苦しむ民衆の中には「大活仏の出現」として歓喜し迎える者は多かった。それは第二次奉直戦争に備えて兵力を必要とした張作霖を刺激し、疑惑を招く。ついに張作霖は軍を動かし一行をパインタラへ追い込み、六月二一日、盧将軍はじめ、百三十七名の将兵を銃殺、王仁三郎ら日本人六人を捕えて銃殺刑を宣告した。王仁三郎は「いざさらば天津御国にかけのぼり 日の本のみか世界守らん」など三首の辞世を詠み、ついで他の五人の辞世も代作する。まさに機関銃の銃口が向けられた瞬間、日本領事館の「待った」がかかる。危うく死線をこえて一行は日本へ送還された。七月十三日、王仁三郎ら一行は門司に到着、そのまま大阪の未決監送りとなるのだが、民衆は三年前の不敬漢をがいせん将軍のように迎え、喝采を送った。ジャーナリズムも「このお話は探偵小説の興味をもって迎へられる極めて厳正なる事実の物語だ。日本人が大陸に理想的の新王国を建設しようとした大胆な試みであった。開闢以来初めての企てである。しかも徒手空拳をもってそれをやっつけようとした大胆さにいたっては、壮挙を通り越して誇大狂だという非難もあるだらうが、とにかく支那政府の威力の徹底しない蒙古の大砂漠のうちに突如として新天地を開拓しようといふ破天荒の陰謀、ロマンチックな夢のやうな空想であった」(『太陽』大正十三年十二月号)とちゃかしながら、おおむね好感をもって報じた。王仁三郎が保釈出所したのは七月二十六日である。当時の中国に道院という新宗教団体があり、華北から満州及び中国全土にかけて多くの信者を有し〝扶乱(ふーち)″ による壇訓(神示)に従って活動していた。大正十二年九月一日に関東大震災が起こると、道院では壇訓の命のまま使者三人を東京に派遣、白米二千石と銀二万元をおくった。彼らにはもう一つの使命があった。「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」と壇訓に出ていたため、探し求めて十一月三日、綾部を訪れ王仁三郎と出会う。以来、大本との深い提携が成立した。第二次大本事件で獄中にある王仁三郎に降った壇訓の一つに「数運は天運と相合す。尋仁(壇訓による王仁三郎の道院名)は化世の大責を負う考 必ず数運と天道の輪転に循(したが)い、以て世間諸劫の障りを受く也」(昭和十三年二月十八日、於瀋陽道院)とある。「化世の大責」とか「世間諸劫の障りを受く」といえば千座の置戸を負い給いしスサノオノ命がまず思い浮かぶが、確かに王仁三郎には偶然の一敦と言いきれぬ不思議な暗号的数字がつきまとう。千二百六十(むそか)日の間 月汚す六百六十六匹のけものこの歌は『霊界物語』第三十六巻第十四章の余白歌であるが、聖書に関心を持たれない人にはなんのことかわかるまい。『新約聖書』ヨハネ黙示録は巻頭に「これイエス・キリストの黙示なり」と示し、「この予言の言を読む者と、これを聴きてその中に録されたることを守る者は幸福なり。時近ければなり」とあるように予言の書とされている。その第十一章を引用しよう。「ここにわれ 杖の如き間竿を与えられたり。かくてある老云ふ『立ちて神の聖所と香壇とそこに拝する者どもとを度(はか)れ、聖所の外の庭は差措きて度るな。これは異邦人に委ねられたり。彼らは四十二カ月のあひだ聖なる都を蹂躙らん。我わが二人の証人に権を与へん。彼らは荒布を着て千二百六十日のあひだ予言すべし。彼らは地の主の御前に立てる二つのオリーブの樹、二つの灯台なり。もし彼らを害わんとする者あらば、火その口より出でてその敵を焚きつくさん。もし彼らを害はんとする者あらは、必ずかくの如く殺さるべし…』さらに同書第十二章には「彼処(かしこ)に千二百六十日の間、かれが養はるる為に神の供え給へる所あり」、第十三章には「獣また大言と涜言(けがしごと)とを語る口を与へられ、四十二カ月のあひだ働く権威を与へらる。彼は口をひらきて神を涜し、叉その御名とその幕屋すなはち天に住む者どもとを漬し、また聖徒にたたかいを挑みて、之に勝つことを許され…聖徒たちの忍耐と信仰とは滋にあり」とある。

実は、゛ヨハネ黙示録″のすべてが大本出現の予言と解釈するキリスト者もいるのだが、確かに似ている。ここではそのうち神が獣に四十二カ月のあいだ、聖地を蹂躙する権利を与えられたこと、「二人の証人」とは、出口なお・王仁三郎に該当するのではないかということを指摘するにとどめる。さらにユダヤでは一カ月を三十日と計算するため、四十二カ月とは千二百六十日にあたる。

また〞黙示録″ と並んで予言の書とされる『旧約聖書』の中のダニエル番″ 第七草

「かれ至高者(いとたかきもの)に敵して言を出し、かつ至高者の聖徒を悩まさん。彼また時と法とを変んことを望まん、聖徒は一時と二時と半時を経るまで彼の手に付されてあらん、かくて後、審判はじまり、彼はその権を奪ほれて終極まで滅び亡ん」、また同書第十二章には「この奇跡は何(いづれ)の時にいたりて終るべきやと我聞くに、かの布の衣をきて河の水の上に立る人、(著者註 註・瑞の御霊?)天にむかひてその右の手と左の手を挙げ、永久に生ける者を指して誓ひて言へり。その間は一時と二時と半時なり」とある。一時と二時と半時」は一二六。この数字にも深い意味がありそうだ。

前出゛余白歌゛の「月汚す」の月とは、王仁三郎自身を指す。彼は瑞月と号し、しばしばおのれを月になぞらえる。「六百六十六匹のけもの」は〞黙示録″ 第十三章の「獣の数字は人の数字にしてその数字は六百六十六なり」に求められる。王仁三郎は「六六六は三六さまに抵抗すること」と言っているが、こうしてみると余白歌は明らかに〝黙示録〃の予言を踏まえてのもの。それでは一二六の数字がいったいどう王仁三郎とかかわりあうのか。

一 第一次大本事件で王仁三郎が大正十年二月十二日に獄に投ぜられ、同年六月十七日に責付出獄するまでの、獄中日数百二十六日間。(前記ダニエル書第七章、聖徒は一二六日彼の手(国家権力)に付された)

王仁三郎が奉天から蒙古へ足を踏み入れた日が大正十三年三月三日。パインタラで遭難し奉天の日本総領事館に護送される七月六日まで、すなわち王仁三郎が蒙古の地に足跡を刻した期間が百二十六日間。

三 王仁三郎が奉天に到着した二月十五日(大正十三年は閏年)からパインタラ到着前日の六月十九日まで、すなわち蒙古の地に救世主の再来と仰がれ奇跡をおこなった期間が百二六日間。(ダニエル書第十二章。奇跡の数々は、王仁三郎の『入蒙記』参照。荒布は蒙古服か)

四 大正十三年六月二十一日にパインタラの地でとらわれ、十一月一日に大阪刑務所を保釈出獄する前日までの、獄中日数百二十六日間。(七月二十一日に奉天から護送され二十七日に大阪刑務所に入れられるまでの船車中の日数七日間は獄中生活ではないため減ずる)

五 第一回入獄の大正十年二月十二日より入蒙を経て門司へ帰着。第二回入獄の前日、大正十三年七月二十六日までの日数千二百六十日。(ユダヤ式に一カ月三十日の計算で四十二カ月。前記ヨハネ黙示録、十一・十二・十三章参照)

王仁三郎の入獄に関して、一二六の数字が三年足らずの間で私の知り得たところ五回繰り返されている。まさに壇訓のいう「数運と天道の輪転に循(したがう)者」なのであろう。とくに第五の一二六〇日間というものは、世をあげて月(大本と王仁三郎)を汚し、四十二カ月のあいだ異邦人(弾圧者)に委ねられた聖なる都(神苑)は、蹂躙(ふみにじ)られっぱなしであった。官憲たちは土足をもって神殿を汚し、破却し、開祖の墓を二度まで暴いてはずかしめたのである。

「獣また大言と涜言(けがしごと)とを語る口を与えられ、四十二カ月の間…」とあるが、満天下の新聞・雑誌は連日何を語ったか。「三文の値打も無い大本教」「戦懐すべき大陰謀を企てた大本教」「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかる」「伏魔殿の正体暴露」などと根も薬もない怪奇にみちた冒涜記事で恥ずかしげもなくうめたものである。それらの悪口がなぜ四十二カ月で消えていくかは、王仁三郎が蒙古より生還し門司に入った日から世間の見方が大きく変わったからだ。  これも「悪くいわれてよくなる仕組」なのであろうか。ここで気になることは、黙示録第十一章の「もし彼ら(二人の予言者)を害わんとする者あらは、必ずかくの如く殺さるべし-・・・」の一句である。なぜならば、大本に第一次弾圧を加えた内閣の首班原敬は、本宮山神殿を毀し終わって八日目(大正十年十一月四日、東京駅頭で珍しい艮の一字を名に持つ青年中岡艮一のために刺殺された。パインタラで盧とその兵らを殺し、王仁三郎一行を機関銃の前に立たしめた張作霖は、四年後の昭和三年六月四日、京奉線爆破事件で爆死をとげた。大本に第二次弾圧を加えた岡田内閣は、三カ月足らずで二・二六事件のために悲惨な最後を遂げた。また大本を二度にわたって徹底的に弾圧した大日本帝国はやがて第二次世界大戦によって崩壊する。