宇宙と神 

  神といえば みなひとしくや思ふらん 鳥なるもあり虫なるもあり(古歌)神といっても多種多様で、まさに八百万…。キリスト教的なゴッドもあればギリシア神話に出てくる感情ゆたかな神もある。知恵授け 火難・水難よけ、縁結び、 金儲け、病気治しの神…さらに専門化して眼病、胃腸病、皮膚病などを治す神…。また、人が死ぬと神社にまつり上げたり、動物霊の崇りをおそれて神としたりする。それでは、大本でいう神とは何か。人に憑ったり予言を吐いたり、まことに面妖不可思議な大本の神について説明をしておく必要がありそうだ. 王仁三郎はおもしろい表現をしている。「主(主神)は澄にして澄みきり給うて言(結)うに言われず、説(解)くに説かれず、これはおやじのハゲ頭のようなものであります」… 髪(神 を結う、解くにひっかけて笑わせながら、ちゃんと勘どころを教えている。人間の言葉で説明のつくものには限界がある。たとえばゼロという数値などどんなふうにわかりやすく説き得るだろうか。無限の果てのまた無限などということを説明できるだろうか。もともと人間の頭脳力をはみ出した存在をどうして学問や知識で説き尽くすことができよう。「太平洋の水をぜんぶインキにして書きつくしてもなお神徳について完全に伝えることはできない」と王仁三郎も言っている。私にできるのは神についてのある程度の概念を伝えるぐらいである。「宇宙の本源は活動力にしてすなわち神なり。万有は活動力の発現にして、すなわち神の断片なり」 これは大本の神観・宇宙観をもっとも要約した王仁三郎の言である。宇宙の造化の働き、言いかえれば大自然の生成化膏の力こそ、神そのものであり、万有はその力によって生れたもの。世の中に真の無神論者は少ない。自分でそう思いこんでいるだけである。今日までの宗教の及ぼしたさまざまの弊害を見て反宗教的思想になり、反動的にそんな宗教の押しつける神を認めようとしない人たち。しかしどの宗教がどうあろうと'神の実在に本来なんのかかわりもない。.神の概念が自分の気に入らないからその存在を認めたくない人たち 宗教者でありながら信仰の対象として必ずしも゛神゛ をもたない人たちもあるが、宇宙の大理法を認めずして宗教者であることはできない。にもかかわらず人格的な神を想定して頭から迷信だと笑う。それでいながら自称無神論者の多くは心の奥底に何らかの畏れを持っている。顕在的知性は承服したがらぬのに、潜在的霊性はちゃんと承知しているのだ。「宇宙の活動力そのものを神」とするならば、それをも否定する無神論者はなくなろう。しかし当然彼らは反問する。「宇宙の造化の働きは否定できぬが、それをことさら神と呼んで拝む対象にする必要がどこにあるか。造化の働き、大自然の生成化育の力で充分じゃないか」問題は言葉の持つ限界である。宇宙の活動力には厳然たる意志があり、その意志の向かうところ、まことに不思議な作用を及ぼし現象面にあらわれる。゛宇宙の活動力゛というのも比較的正しい観念をあらわすために止むなく使った言葉に過ぎぬ。たとえば、神に似せてつくられたという゛人゛ であるが、「二本足で歩く哺乳類」の説明語ではかえって納得できまい。゛母゛ といえば誰しもそれなりに母のイメージをつかみ得るが、 「私を生んだ女」という最も適確な言葉におきかえれば、ぎこちなく冷たい響きがする。゛父゛を称して「私を生んだ女に生ましめた男」というに至っては…゛神゛という言葉のかわりに゛宇宙゛ といってもいいわけだが、いわば霊魂の脱出した死体を見るようで、形骸はわかるが神のもつ深遠微妙・霊妙不可思議なるカを伝えにくい。もっと深くその本性をあらわす適切な言葉が造り出されぬ限り、ともかく゛神゛ でごしんぼう願おう。大本でいう〞神″ の定義の一は、 「天地万有の創造主」である。天も地も人類も動植物も鉱物も、宇宙間のいっさいをお造りになった存在である。もちろんこの神を造った他力はないが、もしあるとするならその他カが神であり、その他力を造った別の大他力をありとせば、その大他力こそ神である。神は造られたものでなく万物を造った意志的存在…これを真の神と呼ぶことにしよう。この定義から言えば、八百万の神霊群とか人間や動物がカミとなったものはその神から区別されねはならぬ。もう一つの神についての定義は、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」・・・それはどこに存在するのか。宇宙の内側とすれば太陽か、月か、地球か、はた別の星雲なのか。地球とすればどこの大陸に? それとも神社・仏閣か家庭の神棚の中に?  しかし宇宙の中のどこかの一点に在るとすれば宇宙と神は相対的な関係となり、゛絶対゛ という定義に反してぐあいが悪い。視点を他に転じてみよう。ものを考え喋るワタクシは私の肉体の外から指令を発して私をあやつるのではあるまい。では、私は肉体のどこに 頭脳か、心臓か、神経か、胃か、それともはかに…? 否々、ワタクシは私の肉体のどこかにちょこんといるのではない。ワタクシは私の肉体と合一状態にある。同様に神は宇宙と合一状態にあるからこそ宇宙に対しても絶対であることができる。神の活動力は宇宙に編在しているからだ。それでは、宇宙はいつできたか。宇宙時代といいながらわかっているつもりで日に日に認識を改めねばならないのが宇宙である。が、今日の科学の教えるところでは宇宙ができて百億年(王仁三郎説は五十六億七千万年)、地球ができて四十五億五千万年、生物が発生して六億年という。人類らしきものが発生してわずかに二百万年。その人頬にとっては百億年という過去の時間は始めがないにひとしい。始めがなければ終わりはない。無始無終である。宇宙の大きさは?  百億光年の広がりをもつと科学は教える。一光年は太陽の光が一年間休みなく突っ走る距離を指す。光の速度は秒速三十万キロ、一秒間に地球を七まわり半するスピードだ。地球と太陽の距離は一億五千万キロ、人間がオギャーと生まれた瞬間に新幹線並みの時速二百キロで一秒の休みなく太陽に突っ走るとすれば七十五万時間、到着したとき、八十五歳になる勘定だ。それを光の速度でもってするなら地球に到達するのにわずか八分十九秒. 一年間走れば九兆四千六百億キロ進む猛スピードである。その一光年を一単位として百億倍が宇宙の広がりというのだからまさに無限。人類が宇宙を征服したなぞとはおこがましいかぎりだ。その宇宙の発生など、人智で知れる道理はないが、王仁三郎は高熊山に坐して神から霊視させられたという。その著『霊界物語』(八三巻)で王仁三郎は詳説しているが、今は最少限の紹介にとどめよう.天もなく、地もなく、時間も空間もない…遙かなる昔、大虚空中に葦の芽のように一点のヽが忽然と現れた。この無形、無声、無色の純霊を『古事記』では、天之御中主神という。ヽは澄みきり澄みきりつつ次第に拡大して一種の円形をつくる。このとき、湯気よりも煙よりも霧よりももっともっと微細な二種類の神明の気を放射する。霊素(火素・陽素)と体素(水素・陰素)だ。この霊系の祖神を『古事記』では高皇産霊神、体系の祖神を神皇産霊神という。この二つの神名にあるように宇宙には゛ムスビ゛ (産霊)という不思議な作用がある。言霊学では〞ムス″ は産す・蒸す' ゛ビ゛ は霊・日の意で'すなわち〞結び〞とは単なる連結ではなく命(霊・日)を生(産・蒸)み出す力である。酸素と水素の結びによって水が生まれ、陽極と陰極の結びによって電気が生まれ、男女の愛の結びによって子が生まれる…言霊学では霊は゛チ″ または〝ヒ″、'体は〞カラ″ であり'〝カラタマ〞である。霊素(チ)と体素(カラ)を結んで霊体を生む。もともと、体は霊を宿すべき容器 殻・空魂であるから、この穀に霊気を満たして二元を結び力を生む。もう少し耳なれた言い方をしよう。宇宙には神霊原子ともいうべき火(霊)素・水(体)素があり、相抱擁帰一して精気となり、いわゆる電子を発生、それが発達して電気となる。これが宇宙の活動力の源泉となり、動・静・解・凝・引・弛・合・分の八力が完成される。「宇宙の本源は活動力にしてすなわち神なり」の意である。『古事記』の冒頭の一節、「天地の初発のとき、高天原に成りませる神の御名は天之御中主神、次に高皇産霊神、次に神皇産霊神、この三柱の神にみな独身成りまして隠身なり」の造化の三神にあたる高皇産霊神も神皇産霊神も、天之御中主神が活動されるときに生ずる霊体二元の働きを表現した神名にすぎない。だから真の神とは三神即一神にして三位一体の関係にある。他に比類するもののない独一真神であり、その霊・力・体の大元霊としてのおはたらきは幽の幽、神秘の最奥にあるから隠身といえる。この宇宙の大元霊について、古来、人類はいろいろな名で呼んできた。主神、独一其神、造物主・・・、キリスト教ではゴッド、ユダヤ教ではヤーヴェ、ギリシア神話ではゼウス、イスラム教ではアラーの神、中国では天・天主・天帝・易では太極、日本神道では天之御中主大神、仏典でこの概念に近いのは阿弥陀如来。大本では大国常立大神と尊称する。呼び名はどうあれ、ただ一柱の真の神であり、別の神があるわけではない。さて、高熊山に戻って、一種の円形となりながら放射した神明の気(霊素・体素)が圏を描いて円形を包み、ヽとなった.このとき寂然たる無音の虚空に初めて澄みきったスの言霊が発せられる。スはス-ス-ウと四方八方に限りなく極みなく伸びひろがりふくれ上がり、鳴り鳴りて鳴りやまず、極まってウの言霊を生む。ウは万有の体を生み出す根元であって、ウの活用極まって上へ昇りつめアの言霊を生み、下りに下ってオ声を生む。こうしてアオウエイの五大父音、やがてカサタナの九大母音が生まれ広がって、七十五音の言霊が発生。その発する霊波は荘重なる和声となって宙にみなぎり、清軽なるものは霊子の根元となって空を浸し、重濁なるものはしだいに下って物質の根元となる。『古事記』の「天地の初発のとき、高天原に成りませる・・・・・・」の成るは鳴るの意で、「天地剖判の時、タ-カーア-マ-ハーラーと鳴り響いた--」となる。「ヨハネ伝」首章に「太初(はじめ)に道(ことば)あり、道は神とともにあり、道は即ち神なり。この道は太初に神とともに在(あり)き 万物これによりて造らる。造られたるものに一として之に由らで造られしは無し」とある。コトバは道ではなく、天地に満ち満ちた言霊のことであると王仁三郎は言う。仏教でも「阿(呼気)・呍(吸気)」と言い、寺院山門の仁王やコマ犬がその姿を示し菩提心と涅槃をあらわす。密教では、阿呍で法界(全宇宙)万有を摂し、阿は一切が発生する理体、呍は一切の終結する智徳をあらわす.このように、仏教でもア・ウンの言霊の重要性を説いているが、ア・ウンの元にスの言霊のあることが示されぬためス(主)神がわからぬ。万有いっさいの現象は、必ず「幽の幽」、「幽の顕」、「顕の幽」、「顕の顕」の順序を経る。たとえばここに私が存在する。ということは、父母の出会い以前にすでに潜在的、無意識的に私の生まれるべき素因、いわば霊子があったからだ。が、これは「幽の幽」の世界。地上界での父と母との出会い、その愛の発現である想念の中に私は「幽の顕」となった。愛の結び(産霊)によって胎内にヽを発生、それは◎となり、次第に成ってほぼ十カ月、これは「顕の幽」といえよう。胎内から現界に出て肉眼に触れたときが「顕の顕」。しかしやがて死ぬと私は「顕の幽」の世界に戻る。あるいは念願の家を建てるとしよう。決意したときは「幽の顕」だが、それ以前の意識を「幽の幽」とする。何かの理由や原因があって家が欲しかった、あるいは無意識に求めていた期間である。さて'決意したとなると具体的な計画が必要だ。建てる場所、予算、様式、設計、着工及び完成の見通し、施工者の選定等々、これらが「顕の幽」である。現実に家が形を現わし始めてからが「顕の顕」に入る。宇宙の進化も、隠身から現身へとその順序を経る。大元霊たる真の神の「幽の顕」の段階での神名が、出口なお・王仁三郎にかかったという国常立命 (艮の金神)・豊雲野命(坤の金神)。それから派生する万化の動きを名づけて八百万の神、これが「顕の幽」となる。つまり幽の幽たる一点のヽに始まって、大元霊たる◎の大神はその火水を結んで力を生み千変万化しつつこの宇宙を造られた。この造化の働きは久遠にめぐりうつりをくり返しつつ進化していく。天地間の森羅万象は人も含めて「顕の顕」となった神の姿、神の体の断片といえよう。この宇宙間には、神の霊・力・体が活気りんりんと満ちあふれ、現界にある万物はその霊・力・体をなんらかの比率でもってわかち与えられて成り立っている。とりわけ人は神の属性をすべて完全にわけ与えられているから、人は「神の子・神の宮」だと王仁三郎は言う。神と人との関係について大本教旨は明示する。「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の主体也。神人合一してここに無限の権力を発揮す」神について、人について、神と人との関係について三段にわけて説く。第一段は万物に普遍している霊が神であるときわめて簡潔に汎神論的に説かれているが、当然、われわれの祈りの対象はその遍在する霊の総本源にさかのぼって、大元霊に向けられなければならない。第二段で人は天と地の現実界と霊界のすべてを整え治めるために構想し実践すべき主体、責任者であるとしている。さらに第三段で何を告げているのか。「神が絶対善・絶対愛であるならば、何故こんな不公平な世界をそのまま放擲しておられるのか。なぜ、さっさと万民和楽の世界を作られないのか」と神への不満をよく聞くところだが、それは神についての正しい認識に欠けるからだ。神は霊である。神の霊を止める存在が霊止(ひと)であり、人が神の体の役割をする。霊と体とが合して初めて霊体が生まれる。目の前のコップ一つをとろうとしても、指が、手が、頭脳が、神経の全体が協力しなければどんなこともできぬ。つまり霊だけでは何一つできないのだ。むろん体だけでもできない。肉体は健全でありながら霊魂の働きが停止しては昏々と眠り続けるほかはない。宇宙剖判以来、この地上に楽園を築こうとされる神の意志がどれほど熾烈であっても、神の体の役割を果たすべき人類が神より与えられた主体性をいいことに神を押し込め、神など無いものとして好き勝手に動いたのでは、いつまでたっても理想世界が実現し得よう道理はない。人が神に心を開き、その意志と一体になってこそ無限のカを発揮できるのだ。世界中の宗教者がただ神に祈るだけでなく、全人類の平和と幸福のために宗教的エゴを投げ捨て、手をつないで立ち上がるならば、神の意図する理想世界への巨歩を大きく進めることができよう。精神上の迷信に根ざせる宗教、物質上の迷信に根ざせる科学はともに真理に遠い。神と人、霊と体との激しい結合によって火花のように発する奇跡的な力、神秘的な作用こそ神力・法力と名づけるものであろう。霊・力・体の三大原則から出発せねは誠の真理は生まれない。王仁三郎は「ナザレの聖者キリストは神を楯としてパンを説き、マルクスパンもて神を説く」とうたっている。神霊が宇宙に遍在しているならば、なぜ'神社、仏閣や神棚に向かって手を合わすのかという疑問が残ろう。われわれのまわりにはラジオやテレビの電波ととびかっている。それらのスイッチを押して見るまで「そんな電波が聞こえたり見えたりなどバカな」と思う者が今日いるだろうか。ところが、宇宙の霊波の中にひたりながら、いまスイッチの押し方を知らないわれわれは、そのままでは感じとることができぬ。ラジオやテレビに代わる何かの受像機がいるとすれば、神社や神棚がそれにあたろう。心を神に向けて一筋に手を合わすとき、スイッチは押されて神霊との交流がより可能になるからである。神殿に神は在(ま)さねど人々の斎(い)つかむたびに天降りますかも(王仁三郎)