日清・日露戦争の予言

 なおの腹中にあって「艮の金神」と名のりをあげた存在について若干の説明が必要であろう。艮とは日の吉凶、方位の吉凶、干支と運命の関係などを説く陰陽(おんみょう)道上の語で、丑寅(東北)の方位をいう。東北は「陰の気のきわまり集まる所、百鬼出入の門」として古来より恐れられ、この鬼門を忌む風習は現在も根強く生きている。金神とは方位の神で、周期的に遊行し、金神のいる方角をけがすと゛七殺の崇り゛ があるという。 七殺とは、家族七人を殺すこと。七人の家族数が満たぬときには牛馬などの家畜を殺し、それでも足りねば隣家に及ぶといわれる。それがほんとうならなんと勝手な、鬼よりもむごいのがこの金神であり、まさに人類の敵、憎むべき祟り神ではないか。. こともあろうに、人の忌み嫌う鬼門の金神の名をあたりかまわず宣(の)り上げるのだから、人一倍つつしみ深い恥ずかしがりのなおの苦しみは想像に余る。幼い頃から霊感があり、結婚後もしばしば予感を体験し、朝夕神仏を拝する信仰深いなおであった。 わが身を社(やしろ)とし、わが口を使って大言壮語するのが、もし狐狸(こり)の類のいたずらであっては世間さまに申しあげない。ご先祖さまにも子供たちにも。なおは、遠近の加持祈祷(かじきとう)師や高名な憑(つ)き物封じを訪ねては、必死に離脱をねがう。しかし無駄であった。 そればかりか、カミはどんと居すわったままカミの生宮たるにふさわしくなおの肉体の改革に着手する。手始めが、節分から始まる十三日間の絶食と七十五日間の寝ずの水行であった。この世の貧苦にいためつけられ、年老いた五十七歳の生身にとって、このうえの行などあまりにむごすぎる。しかしなおはすべての試練に耐え抜いて、いささかの衰えも見せなかった。肌はすきとおるほど清らかになり、半白の髪は銀色に輝き出して気品すら加わった。体の浄化ばかりではなかった。退いてもらえぬなら自分で問いつめ、憑き物の正体をみきわめようとする一心から、昼夜をわかたぬカミとの問答がはじまる。世間には賢く、若い、立派な人が大勢いるだろうになぜ無学な貧しい層買いの年寄りをえらんでカミがかかるのか。それが何より、なおには納得ゆかぬことであった。「…なおは昔からの神の経綸でこの世の代わり目にお役に立てる身魂であるから、わざと根底に落として苦労ばかりさせてあろうがな。地獄の釜の焦げおこしとはこのことかと嘆いたこともあろうがな。苦労なしには誠はないぞよ。誠を貫きてくれたれば、けっこうにいたして神がおん礼申すぞよ」とくり返し神は説得する。 次第になおは教化され、この神と一体となり素直に御用を果たそうとする。いわば諦(あきら)めの結果であるのに、いつかなおは…この神を世にお出ししたいと真心こめて願うようになっていた。しかし丹波の小さな田舎町では誰が耳を傾けてくれよう。なおの叫びは不吉で危険な気違いのたわごとでしかない。  明治二十六年四月、なおはならず者の娘婿の手で座敷牢に幽閉される。四十日後子供たちの最後のとりでである二間だけの小さな家屋敷や家具類いっさいを娘婿にゆずることを条件に、なおは座敷牢を出た。無一物になったかわり、すべての借金からもようやく解放されて一人放浪(ほうろう)の旅に立つ。この頃から、神の雄叫びはしずまっていた。  狂人扱いされる辛さにたまりかねたなおの頼みで、意志の伝達は別の方法に切りかえられたのである。それはなおにはまったく無縁であった゛文字゛ による方法であった。 その前後の経緯(いきさつ)について明治三十三年入信の田中善吉がなおの言葉を書きとめている。「わたしは何も(字を)知らぬので、どうしたらよいやろうと思うておると (カミが)『なおよ紙と筆と墨を買うてくれい。わしが書くから、お前の手を借るだけじゃ。紙一折二銭と筆一本二銭、墨一本三銭・・・』と言われるゆえ買うてきましたら、墨をすれと言われ、筆を持てと言われるゆえ持ちましたら、紙の上にひとりでに字が書けて、あたしは読めませんから人さまに読んでもらうなれど、誰もわからんというてろくに見てくれもせず読んでくれる人もない。 けれどただ腹の中から『なおよ筆先を書けい』と申されるからわけもわからず書いておるうちに、ぽつぽつわかりかけてきたから--」 これが心霊研究上の用語でいう゛自動書記゛であろう。明治二十六年よりなおが昇天する大正七年(一九一八)までの二十五年にわたって書き続けられたこれらは゛筆先゛と呼ばばれ、半紙十万枚以上に及ぶ膨大なものになる。  筆先の文字は平仮名と数字ばかりで、「五」(ご)、「九」(く)、「九゛」(ぐ)、「十」(じゅう)の数字も平仮名がわりに使われている。 漢字は使用されず、句読点もない。この筆先に後年、出口王仁三郎が漢字を当て、句読点をつけて発表したものを『大本神諭』という。書体は独特だが、二十五年間活字で印刷したように変わりなく、文字の特色さえのみこめはすべての筆先が読みこなせる。 われわれの目には稚拙としかいいようがないが、書家の中には「六朝体(りくちょうたい)に似た一種の風格を備え、凡人の筆跡ではない」と讃嘆する者もある。また十万枚の筆先のうち書きなおしの箇所が一つも見あたらぬのも特徴といえよう。    筆先の内容は神の経綸、神々の因縁、 大本出現の由来と使命、天地の創造、神と人との関係、日本民族の使命など広範にわたるが、人目をひいたのはまず、人類に対する予言と警告であろう。  明治二十六年旧五月の筆先には、「来春は からと日本の戦いがあるぞよ」とある。『神の国』 (当時の大本の機関紙)昭和十年一月号にその頃の信者である四方すみの語った『入信の経路』がのっている。…明治二十六年のことですが、「来年になると支部という国と日本は戦争せねばならん」と(なおが)おっしゃる。「支那って何処(どこ)ですかいな」(と四方すみが問う)「どこかわしも知らんが、神さまが日本は支那と戦争するとおっしゃる、そして戦いは日本の勝ちじゃと神さまがおっしゃる」「へえ来年戦争するのですか。一体その支那ってどんな国ですか」「さあ、わしも知らんがともかく外国だそうや。なんでも日本よりはどえらい大きな国じゃと神さまがおっしゃるがわしにもさっぱりわからぬ」 開祖さま(出口なおのこと)も支那がどんな国で、どこにあるのかサッパリご存じでない。「信濃の国というのもありますさかい、その辺だすやろ」というようなことに二人の話はなってしまったそうですが… その時にまたこんなことをおっしゃった。「福知山に営所(兵営)ができますそうです。そして舞鶴に鎮台ができてあの海には軍艦が浮かぶようになるそうです。福知・舞鶴外がこい十里四方は宮の内、綾部末で都といたすぞよと神さまがおっしゃる」。 すみさんはすっかり面くらってしまって何が何だかさっぱりわからぬ。だいたい支那と戦争するとか福知山に営所ができるとか、舞鶴に鎮台ができてあの海に軍艦が浮かぶようになるとかサッパリわけのわからぬことばかりであります。その当時そんな話はないどころか、その気配もなかったから、わかる道理がない。おすみさんがびっくりしたのも無理はないと思います。 それからまた「おすみさん、本宮山に天の御三体の大神さまのお宮が建つそうです。神さまがそう言っていられます」「ええ、いったいいつ建つんですか」「もうじきです」 寒い最中にも一重物を着て倉の板の間にいる人がこんなことを言うのです。おすみさんやさかい聞いているのですが、他の老なら一笑に附してかえりみてもくれなかったでしょう。ところが(明治)二十七年に支部と戦争が始まって二十八年に日本が勝ってしもうた。福知山には連隊がおかれ営所ができたし、舞鶴は軍港になり軍艦が出入りするようになった。本宮山にも今はその礎石だけが残っているが、お宮が建った。何もかもお言葉どおりにちゃんとなってきた。おすみさんはこのお話を聞かしてもろうて、そのとおりになったのを見て、いよいよ本格的に入信されました。 明治二十六年の夏、出口なおは八木(京都府八木町)の゛北宗(ほくそう)゛ という屋号の家で糸引きをしたことがあるが、その近所で育った波部(はべ)理一郎という当時少年であった人に語りかけたなおの言葉を記憶していて、録音テープに残している。「ぼん(坊)よぼんよ。もうすぐ日本と支那の戦いがあるで、日本が勝つように神さまにお願いせんならんから、なまぜん(神饌物) を用意しておりますのや」 子供心にも、なおの言葉が異様で鮮烈な印象を焼きつけられたのであろう。なおは旅先でこうして語って歩いたが、丹波の田舎では誰も本気で聞く者はなかった。無理もない、まだ日本は戦争と名づけるほどの外国との戦いを知らなかったのだから。 日清戦争が始まり、日本の勝利に終わる頃、次の予言が筆先に出る。「戦争(日清)がおさまりたおり、この戦いおさまりたのでない、この戦いをひきつづけにいたしたら日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにいたしたのでありたぞよ。こんどは露国から始まりて大戦があると申してありたが、出口のロと手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」(明治二十八年旧六月)