予言のつぶて

昭和十七年七月三十一日、第二審判決の日である。大阪控訴院第三号法廷は、全国からひそかに集まる信者たちが二百人を超す傍聴者となってあふれていた。思い返せばじつに長い苦しい道のりであった.当局の圧力をはねのけ、法の秩序と人権を守る立場から参加した清瀬一郎・林逸郎・高山義三・前田亀千代・田代三郎ら一流弁護士を加えて十八人からなる弁護団をかかえ、公判だけでも第一審で百五回、第二審で百二十回、さらに上告審と民事事件を含めて十年間にわたる弁護活動をおこなった。裁判に要した費用や弁護事務費、その労力などはかり知れなかった。膨大な大本の動産・不動産いっさいが捨て値同然で処分させられた。代価わずかに三十二万円。そのうち差入費用なども含めて訴訟につかえた金が九万円、この唯一の資金源も第一審で当局の思惑どおりすでに枯渇していた。その何倍もの資金が、信者の地下活動によってまかなわれていくのだ。立替え立直しを神示と信じたばかりに村八分にされ、社会的地位をはぎとられ、非国民よとさげすまれ、非情な世間の迫害に耐えながら、なおひるまずにこの大弁護団を支え続けてきたのは、出口直日を中心とする名もない多くの信者たちであった。信者同士の会合はいっさい許されぬ。ときには刑事の尾行もふり切っての募金活動は'血のにじむ苦しさであった。弁護費用を献金しただけで再建運動とみなされ検束される者が続出した。のどの乾きに 水欲る如く金ほしき 思ひ一途なり路あるく間も弁護費用のない悲しさを直日はうたうが、事件前まではリンゴの皮もむけなかった梅野まで、厳寒の満州へひそかに募金に渡っている。日々の乏しい家計のやりくりから、仕立物の賃仕事の中から、土方をしたわずかの日銭の中から信者たちの誠心が集められ裁判費用に消えていった。
神わざをなすのが原の玉草は 踏まれにじられながら花咲く
王仁三郎のこの歌は、いわば〝かくれ大本″ たちへの賛歌だ。苦しければ苦しいほどその信仰を浄化させる。くじけてはならない。大本を立直せば日本が立直るのだから。暗黙のうちに彼らの胸に流れるのは開祖以来脈々と生きつづける゜型゛ の信念であったろう。午前九時、開廷が宣告される。王仁三郎ほか四十八人の被告、弁護人一同が入廷すると、裁判長・判事・検事が着席。息づまる静寂のうちにひびき透る高野裁判長の判決主文。「被告人王仁三郎ヲ懲役五年…すみ・伊佐男ヲ無罪トス-…」王仁三郎以下八人の不敬罪こそ残ったが、弾圧の主目的である治安維持法違反はすべて無罪…被告人も弁護人も、傍聴の信者たちも思わず鳴咽をかみしめていた。この刻印で大本を地上から抹殺しようとした国家の重圧をはねのけての、勇敢で峻厳な高野裁判長の裁決であった。二時間半にわたって判決の朗読は続くが、弁護士の一人が法廷外にとび出し、つめかける信者に無罪を知らせる。もう声をしのばせる必要のない信者たちは声を上げ、肩を叩きあい、抱きあって嬉し泣きに泣いた。つぎつぎに全国の信者へ電報がとぶ。これに反しておもしろおかしく連日大本の悪口を書き立てた新聞各紙は、その片隅に小さく第二審の判決を伝えただけ。しかも治安維持法違反無罪の重大事実より「大本教の判決、 不敬罪で処断」といった見出しで有罪を印象づけた。この頃の全国新聞は一県一紙に統合され、記事に対する検閲も強まり、圧縮された紙面は連日戦争一色の記事でうずまっていたのである。八月二日、不敬罪その他の有罪とされた出口王仁三郎以下九人は大審院へ上告の手続きをし、翌三日には検事側も治安維持法違反で無罪となった被告全員に対し上告の手続きをする。出口王仁三郎・すみ・伊佐男に対する幾度かの保釈願いは、そのたびに却下されてきたが、昭和十七年八月五日、高野裁判長は王仁三郎に五百円、すみ・伊佐男に各三百円で保釈を決定した。ところが検事は大審院検事総長あてに抗告の手続きをとる。保釈に対する検事抗告は希有であった。それに対し林・清瀬・富沢三弁護人は岩村司法大臣・松坂検事総長に面談し、保釈を正当とする理由を具申した。七日、高野裁判長は両陪席判事と協議し、ついに三人を保釈出所させた。午後三時四十分、王仁三郎(七一歳)、伊佐男(三八歳)の二人は六年八カ月、すみ(五九歳)は六年四カ月ぶりの出所である。かけつけた信者数人に迎えられ、真砂町のさぬき屋旅館で休息し出迎えの弁護士に挨拶ののち、朝日・毎日の記者と会見のあと亀岡へ向かう。王仁三郎は獄中生活を「おもしろかったよ」と言い、「あのな、予審判事がこう言うのや。『王仁三郎、お前は世界の独裁君主になるつもりだったろう』とな。それでわしは言うてやった。『こんなせまくるしい世界の王さまなんかに、世界中が頼んだってなってやるもんか。まあ、三千世界中がよって三千世界の王さまにでもなってくれと頼むなら、ひょっとすればなってやらぬでもない』とな。そしたら予審判事が『法律上ではこの世界以上は通用せんわい』と値切りよった。値切られると誰も気分のよくないものでな、それでわしは『判事さん、あなたはえらい安うこのわしを買うんじゃな』と言ってやったわい。ははは…わしら夫婦と養子と三人、未決から今日出て来たんじゃが、三人とも日本一じゃでなあ。まず女房は日本の刑務所はじまって以来これぐらいほがらかな未決囚は今日までなかったそうや。養子の伊佐男は日本の刑務所はじまって以来、これぐらいまじめな未決囚はなかったそうじゃ。わしのはまた日本の刑務所はじまって以来、これぐらいズボラな未決囚はなかったそうじやわい。三人が三人とも日本一じゃでなあ・・・・・・。わしは罪もなにもないのじゃから、あんな窮屈な場所でまじめくさっておれん。それで一計を案じてすぐ神経痛になって、監房の中で『痛い痛い』と大きな声をあげてやった。そしたら看守がきて『お前のはニセ病だ』と言うから『仮病でこんな声が出せるか』と言うて死声を出してやった。何しろ向こうでは重大犯人と思うてるから、すぐ刑務所の医者に診せた。ところが刑務所の医者がこれまた『出口さん、あなたのは仮病じゃな.いか』と言いよるので『今日の医学では神経痛が本病か仮病か鑑定できるのか』と一本かましてやったところ、医者が『それは鑑定できん』と言うから『医者がわからなければ、本人のわしが一番よう知っとる』と言うてやった。そしたらその医者が『嘘じゃと思うけれど理屈にはかなわん』と言うて私を病監へ廻してくれた。わしは七年間病監で布団を敷いてへソを上へ向けて寝ておったんや」そばからすみが口をはさむ。「うちの先生は昔から手にあわん人でな、それぐらいは朝飯前じゃろ。私も先生にはあきれたことがあったのやで。私は女の監房におったのやが、女の監房と男の監房とは棟も別で仕切りがあって行き来はできんのじゃが、あるとき女の看守が男のほうの看守から聞いたと言うて私の所へきて『奥さん、あなたの御主人は玩具がないと言うて、監房の中で珍宝を玩具にして遊んでおられるという話ですよ』と言うていましたが、先生、ほんとうですかいな」「刑務所という所は玩具の一つもないところやな。わしだって玩具一つなしでは日が経たんわいな。いろいろ捜してみたところ敵は本能寺にあり、手もとに塚原卜伝の一刀があったわい。ははは…刑務所に入っている者はみな明けても暮れても心配ばかりしている。わしはもうこれで何年も入っている。いつになったら出してくれるだろうか、自分の身の上は一体どうなるだろう、家族はどうしているじゃろうかと心配ばかりしていて、みな自分で自分の命を削っとる。わしらはそんな心配などはせぬ。人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔んでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配して見たところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのは今ところこの瞬間だけだ。だからあしらは今というこの瞬間をいかに楽くいかに有効に送るかだけより考えておらぬ。あとはいっさい神さまにお任せしておけばよい。昨日刑務所に入ったことも考えなければ、明日刑務所に入っていなければならぬと考えたこともないわい。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るぐらいばかなことはないからな。未決が一年だろうが七年だろうが同じことじゃよ。ははは・・・・・・」まったく王仁三郎は天衣無縫、おおいにだだをこね、わがままいっぱいに係官を手こずらせた。すみは天真欄浸、ころころ笑い声を立てる人なつっこさで愛嬌をふりまき、伊佐男は六年八カ月の入獄中、就寝のとき以外は足ひとつくずさず正坐して読書三昧にふけった。三人三様の牢獄生活の逸話は豊富であるが、本書の主題とはずれるので割愛する。三人が中矢田農園の家(いま私の住んでいる)の玄関に入ってきたのは夕暮れどきであった。伊佐男はあいかあらず生まじめな顔。姫だるまみたいな体で廊下をきしませながら、すみは朗らかだ。「ああ、よい修行さしてもろたでよ。私の生涯の中でいちばん楽で結構な修行じゃった。こんな修行ならなんばでも辛抱できます」 けれど王仁三郎は傍若無人であった。「アホぬかせ、もうこりごりじやわい。もう二度とあんなとこに入ってやるかい」王仁三郎は獄中においてもわずかな機会をつかまえると日本の将来について示唆を与え続けたが、保釈後は監視つきとはいえ自由の枠が広がっただけに予言はいっそう具体的となる。隠れ忍んで面会にくる人々の口を通じ。王仁三郎の片言隻句は北海道から沖縄にいたる国内ばかりか、台湾・朝鮮・中国にまで波紋を措いて広がっていく。
よきにつけ悪きにつけて世に響く わが言の葉にみづから恐るる 王仁三郎は『神聖』(昭和十年九月号)の中でそれについての心境を語っている。「…余が幾日も雨降らぬ空模様を見て『今年は空梅雨じゃな』と言ふ。おそらく本年の六月、雨降らぬ雨空を眺めて余と同じ言葉を発した人は全国に幾千万人を数えたであろう。それは至極平凡な、なんら問題にすべきほどのことではないのである。しかるに余が発した言葉は、たちまち全国浄々浦々に言ひ伝へられ、至る所に『大旱魃来』の警鐘が乱打されるのである。余が言った一言がいかなる人々によって、またいかなる心理の下に伝達されるか、余は充分にその所以を知っている。余が口にしたといふことを、場所柄もわきまへず、真意をも了解せずして、ひたすら誰よりも早くできるだけ広く触れることに無上の歓喜を覚える者があるらしい。また変わったことを言って人々を驚かしてやろうといふ考えから、余の言葉に尾鰭をつけて吹聴する人間もある。その他、余が流言飛語の張本人だと宣伝することを商売にしている人があるかも知れぬ。それで幹部たちが余に『言葉を慎んでいただきたい』といふのである。たが余はそんなことを恐れて゛人″ たることを廃業する必要は少しもないと思っている。余は、世間からかかる誤解を受けることが必ずしも余自身のために不利益であるとすら思っていない。かかる誤解からどう轟々たる非難の声が起こって、余のために騒ぎ立てる世の中をジット眺めそのために自分がへた張るかどうかと静かにその行末を視守ることもまた面白いではないか」高木彬光は『ノストラダムスの大予言の秘密』の中で、日本の大予言者として出口王仁三郎と高島呑象の二人をあげ、少年雑誌などでも流行の超能力者扱いである。いまや王仁三郎の予言者としての評価は定着しつつある。その予言量はまったく膨大複雑多岐にわたり、如是我聞(自分はこのように聞いた)には限りがない。江戸時代の名裁判がほとんど大岡越前守の功績に帰せられたように、予言といえばなんでもかんでも王仁三郎となりかねぬ危慎すらあった。出口京太郎も「注意を要することとして『真・伝・模・偽・贋』ということを申し上げておかねばなりません。真はほんもの。伝は聖師さま(王仁三郎)のおっしゃった予言と伝えられるもの.つぎに模は聖師さまのおっしゃった予言にかたどっているもので、しかしウソとも決めつけられないもの。偽は聖師さまがおっしゃってないのに誰かの言ったことを聖師の言葉に誰かが作為的にしてしまったもの。それから贋ははじめからウソをつくったもの。美術の研究家にとっては真・伝・模・偽・贋ということは重要なポイントですが、聖師の予言に対してもこれの原則は適用できます」(『おほもと』誌五二年十月号「瑞霊聖師救世の予言」(上)より)と書いている。ここでは歴史学者や多くの証人の目を経て『大本七十年史』に収録された゛真゛の予言から紹介するにとどめよう。王仁三郎は早くから月本および独・伊の敗北を確言、それは全国ほとんどの信者たちにゆきわたっていた。そのうえ根室からきた信者には「千島列島がなくなる」と語り、台湾がうしなわれることも伝えていた。いよいよ戦局が激化して昭和十八年には「神諭に『末と申とが腹を減らしたで惨らしい酉やいが初まるぞよ』(大正7・12・22)とあるが今年は未の年(十八年)で日照りがつづき飢饉になる。羊は下にいて草ばかり食う動物であるから下級の国民が苦しむ。来年は申年で猿は木に住むから中流の人が苦しみ、国民の心が動揺してくる。再来年は酉年で、いよいよ上流の人が困り、むごたらしい奪い合いがはじまる。また戦争には病気がつきもので疾病が流行する。大峠は三年後だ」「いったんは日本は米国の支配下におかれるが、それもしばらくの間や」「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立-…」などと語った。空襲についても「東京は空襲されるから疎開するように」「大阪も焼野原になる」「広島と長崎はだめ」「九州は空襲だ」、反対に「京都は安全」「金沢は空襲を受けない」とおしえ、伊勢空襲をも示唆し、昭和十九年頃には「全国おもな都市は灰になる」と警告した。これらを信じた者はすべて救われ大難を小難に、小難を無難に大峠をこえている.王仁三郎の戦争批判は若い頃から一寛したものであったが、 「今は悪魔と悪魔の戦いで人殺しの戦争だから、力のつよいほうが勝つ」と言い、戦争に協力しないよう信者を指導した。「今度の戦争は生き残るのが第一の神徳だからお守りをやる」と第一線へ立つ出征兵士には「我敵大勝利」と書きそえたお守りを与えた。これはあぶないと人に言われてちょっと考え、我敵大勝利の横に「米英の号外」と書き加える。「すすんで危い所に行かぬように」とさとし「鉄砲は空に向けて撃て」と教えた。「日本は負けても世界のかがみになるのやで、これからどんなこわいことがあっても神さまにすがっておればよい。惟神霊幸倍坐世と言えば神さまにつながる。『月鏡』(王仁三郎の談話集)のなかの悪魔の世界とあるところをよんでおけ」「大本が弾圧を受けたので、戦争に協力しないですんでいるのだ。これが将来に大きな証明になるのや」と信者たちにもらしてもいた。東条英機内閣のときには「東条が英気(つよい気)になって神風は頼むなと言っているから神風は吹かん」と教える。事件前、王仁三郎は築地の料亭常磐で東条英機と二、三度会っていた。大国以都雄が陪席したおりであったが、「軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早すぎる」と王仁三郎がさとしたところ「宗教家のくせ何をぬかすか」と東条は腹を立てた。「その考えが国をあやまるのや。わしには先が見える。わかっているから注意するのだ」とかさねての王仁三郎の言葉にも彼は応じなかったという。昭和十九年七月十八日、東条内観が総辞職し、小磯国昭内閣(小磯・米内内閣)にかわる。王仁三郎は「小磯がしうて米内(ようない)なあ」ソロモン戦からソロソロ負けて、小磯つたいに米内にいる、小磯米内国昭わたす」とうたい、昭和二十年四月五日に小磯内閣が総辞職して鈴木貫太郎内閣になると「いよいよ日本は鈴木野(すすきの)や」「これが日本のバドリオ(ムッソリ- ニ失脚後イタリアの首相兼外相となり、ファシスタ党を解党し連合国に降伏)や。お筆先にも長うは続かんぞよとあるように、長うは鈴木貫太郎(つづかんだろう)」と語る。王仁三郎の信者に対する教示と指導はつづく。「火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」、「東洋に一つおとしても東洋が火の海となるような大きなものを考えている」…昭和十九年に再会にきた広島の信者には「戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」と疎開をいそがせあるいは「広島は戦争終末期に最大の被害を受け火の海と化す。…そのあと水で洗われるんや。きれいにしてもらえるのや」とも言った。広島は八月に原爆をうけ、九月には二度も大水害に見まわれた。終戦に対しても、十八年には長野の信者に「二十年八月十五日に留意せよ。皆神山は安全地帯でB29の不安はない」と語り、十九年には「昭和二十年葉月(八月)なかば、世界平和の緒につく」と聞かされた信者もいる。昭和十八年十一月に満州の部隊に入隊する信者の子弟には三十六もの拇印を押した腹帯を与え、「日本は敗ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗が立つ。そしたらすぐ道院へ行け」と指示した。東満総省長の三谷清のもとへは、信者を通じて王仁三郎の言葉が伝えられる。「今日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から自猿に両眼を掻きまわされる」昭和二十年八月十五日、この日は私の十五歳の誕生日であった。祝いに集まってくれた家族やいとこたちともに祖父を囲んで玉音放送を聞いた。王仁三郎は「マッカーサー(負かさ)れた」と笑い出すが、 私はぷいと立って家をとび出し、近くの寺川の水にもぐりこんで一人泣いた。国賊王仁の子の涙なぞ誰にも見られたくはなかった。゛大本事件゛はその日の夕刻、王仁三郎は『こうならぬとこの神は世に出られぬ』ともらしたが、その翌日、自宅の離れにくつろぎ煙草をふかしながら、『王仁は興奮して眠れんのじや。筆先に陣引とあるやろ』と側近に語った」と述べている。マッカーサーが日本に進駐してくると王仁三郎はその意義を家の大掃除にたとえて説き明かす。

「世界を一軒の家にたとえると日本は家の中の神床にあたる。ところがその神床が非常に汚れ塵埃がたまっているので掃除せねはならぬが、日本の神床を日本人自身にやらせると、血で血を洗う騒ぎをくり返すばかりでできはせぬ。そこで神は、マ元帥という外国出身の荒男をつれてきて掃除をさせられるのや。ところが神床はもともと神聖な所なので、掃除をするにしても絹の切でこしらえたハタキとか紙製のきれいなハタキとか使って掃除せねはならぬ性質のものだが、そこは外国出身の荒武者のことだから、竹の荒ボウキを持って神床を掃除するような時もおころう。神床のゴミをはたくと、次は座敷の掃除が順序じゃな。世界の座敷はどこかというとう朝鮮・支部になる。そして掃除は座敷をもって終わるものじゃない。庭先の掃除が必要になってくる。世界の庭先とは、ソ連や米国にあたる」 

昭和二十年九月八日、終戦直後のあわただしい変動の中、焼けのこった小石川の国民学校にうつされていた大審院の法廷で判決があった。「上告ハ何レモ棄却ス」…理由は読まず、主文だけ。開廷わずか五分で言い渡しが終わる。起訴された六十一人のなかには老齢者が多く、御田村竜吉の当時七十歳をはじめ五十歳以上は三十二人をかぞえた。それから十年、拘禁生活が被告の心身に与える影響ははかり知れず、保釈後に死亡する者があいついだ。この日の大審院判決時の被告は約三分の二の四十人(死亡十六・公判停止一・応召による公訴棄却四)に減っていた。

 いっぽう綾部・亀岡の土地返還の民事訴訟も並行して進められた。弁護団は土地売買の委任や売渡しがすべて警察と町当局の合作であり、強迫と詐欺、文書偽造と印鑑盗用による不法と職権濫用の事実をつぎつぎにあばいていき、訴訟は大本側に有利に展開した。

昭和十九年五月末に判決の見通しであったが、刑事事件が二審で逆転し形勢が権力側に不利になると、判事はとつぜん判決を延期した。そして京都地方裁判所長は昭和二十年六月になって民事和解を大本側に申し入れてきた。しかし、その内容が聖地を寸断して再起の地盤を欠こうとする権力側の意図と見抜いた大本は、 一坪といえども神の聖地を失うことはできぬとして和解を蹴り、裁判所に公正な判決を要請した。敗戦により大審院が大本事件の上告を棄却すると、権力側の態度は一変した。九月二十六日には山崎亀岡警察署長の勧告で町議会が土地の無条件返還を可決、綾部町でも同じように無条件返還を可決した。

十月十八日には亀岡、十一月十五日には綾部の土地移転登記を完了、ついに大本は神の意志を貫いてすべての神苑を奪還した。

この訴訟が長びけば、日本が外国に占領されていつまでも取りかえしのつかぬ型になるという獄中の王仁三郎の指示によって、昭和十三年五月からたたかわれてきたものである。

 弁護士たちが新たな課題の打ち合わせに現在の私の家に集まっていた。国家に対する損害賠償請求であった。綾部・亀岡両聖地の破壊も、明治五年の大蔵省達第一一八号「無願社寺創立禁制の件」に違反したという、法律でもなければ命令でもない、明治初年の大蔵省のお達しを持ち出し、破却費用まで大本側に押し付けて法治国家とは思えぬ暴挙の限を国家自体が犯したのである。神殿だけならまだしも個人の住宅まで全部とりこわし、国賊の所有物は神州日本の汚れになるとして王仁三郎・すみらの持物は一物も残さず焼却したのである。勝訴になった以上、国家に損害賠償を要求する正当な権利がある。その額は当時の金で数億円が計上されるはずであった。現在の物価は昭和二十年の三百倍ほどになるから、いかに巨額なものか知れよう。協議中の部屋をひょいとのぞいた王仁三郎は「そんなケチなことはするな。敗戦後の政府に賠償を要求してもそれはみんな苦しんでいる国民の税金からとることになる。そんなことができるもんやない。今度の事件をわしは神さまの摂理だと思うとる」とこともなげに言った。十月一日に林逸郎弁護士が私宅を訪れたときも、王仁三郎はきっぱりと告げる。、

「まちがった者を咎めてはなりません。それよりも先生には大きな御用が待っているから、早う東京へお帰りなさい」…林を待っていた大きな御用とは、それから四年近くもかかった日本の戦争犯罪人に対する東京裁判である。王仁三郎の愛と誇りにみちた一言で大本はいっさいの賠償要求権利を放棄してしまった。被告に連座した人々も師にならって何一つ要求しなかった.そのため冤をそそぐ権利も長く失ったままなのだが。

十月十七日、天皇の名による大赦令で国事犯・政治犯のすべてを赦免。支配権力を支えてきた弾圧機構は崩壊し、大本の不敬事件もまた自然消滅した。そして二十一年一月一日の天皇の人間宣言、「汝ら国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼卜敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ…」 天皇をアマテラス大神の神格にまで引き上げて、その上の主神の存在をすら許さなかった悪夢のような過去は消えたのである。

罪なくして拷問に命を縮めた幾多の事件の犠牲者はこの宣言をどう聞くであろうか。昭和二十年十二月八日、事件から萬十年余のこの日、大本はよみがえった。「信者は教えを守りつづけてきたので、再建はすでにできている」と王仁三郎が言ったとおり、敗戦に打ちひしがれた全国から大本事件解決奉告祭をつたえ聞いた千五百人もの信者たちが戦後の荒廃の中を汽車をのりつぎ幾日もかけてつぎつぎと綾部にたどり着いた。ありし日の面影もない弾圧の廃嘘に立って、この十年禁じられていた王仁三郎先達の天津祝詞を天にもとどけよと声高らかに奏上する。つづいて高木鉄男、岩田久太郎、栗原白嶺ら、今日のこの喜びをともにできなかった事件の犠牲者たちの慰霊祭が、すみの先達で行なわれる。

深い祈りに伏したままのすみとともに、万感胸にせまって人々は泣きむせんだ。本宮山の神殿破壊あとには、清掃して焼いた山のような灰が残されていた。この灰は事件の唯一つの記念として信者たちに分けられた。「わしは花咲爺じゃわい」とうそぶく七十五歳の王仁三郎には、敗戦後の冬枯れの日本の地にこの一握りの残された灰から花を咲かせてみせようという、何とも底知れない愛と情熱がみなぎっていた。