みろくの世の設計

大本神諭は〞みろくの世゛出現を約束するが、その前にどうしても越さねばならぬ大峠、立替えがあり、「人民三分になるぞよ」の不気味な予言が立ちはだかる。しかしこの神諭が初発されてからすでに八十余年、何を今さらという人もあろう。地球上の時間の観念は人類の設定したもの、宇宙意志の側での時間とは質を異にしていよう。浦島太郎が竜宮に遊んだというほんの数年が、地上に戻れば白髪の翁と化するはどの長さとなる。明治二十五年から流れた地上の八十五年間は出口なおがとらえた宇宙意志の想念よりみればさしたる時間の量ではないにちがいない。地上の個々の肉体は生き、死に、それをくり返していこうが、明治二十五年の国祖の警告は、あの時点の型だけで用済みになったわけではなく、さらに覚醒の警鐘は鳴りひびいているのである。人類は有史以来、万物の霊長として他の生物を征服し続け、今やすべてに君臨して繁栄の絶頂にあるかにみえる。しかし永久にわが人類の春は続くものであろうか。高須令三(医博)はその著『明星記』の中に語っている。「…地球の誕生以来、その地表に無数の生物が生じるようになったのはズーッとあとのことで、化石学では魚類、爬虫類、鳥煩、噛乳類の順序で動物がつくり出されたことを証明している.人間は神が動物の完成品として最後につくった優秀品にちがいない。そしてこれらの生物は、化石の教えるところによれば、それらの種類は新しく生まれては死に生じてはほろびて、今はその大半は姿を消しているといわれている。しかもそれらが、繁栄の絶頂に達したと思くと、こつ然と滅亡するという運命をたどったらしいことは事実である。このことは神の摂理として深い意味があるのであろう。一度栄えたものがどうして亡びたか、これは大きな疑問であるが、進化論の学者たちはその生物の種類が生存競争に打ち勝って優位を占める原因となったその優秀な性質それ自身が、逆に自己を滅ぼす刀となったのだといっている。かつてマンモスが巨大なる体躯をほこって地球上に繁栄していた。巨大な肉体とそのカで弱小動物を滅ぼすことができたその原動力がかえって刃となり、巨大な肉体を維持するための食糧のうばい合いからついに自滅したことはよい例であろう。何はともあれ生者必滅の真理は個々の動物の生命ばかりでなく種類についても同じ運命を語っているのである。」すべての生物がたどってきたというこの種族絶滅の宿命から人類は逃れることが可能であろうか。神の警告が発せられた当時、人々が予測したのはまず大天災であった。原子兵器が実用化された今日、他を制圧したいという利己的欲望の極みから産み成されたこの怖るべき悪魔の狂器が互いに火を発したときには、人類三分どころか地球の終末すらまぬがれぬのは自明の理だ。神を心にもたない狂気の現代では充分にあり得ると思わねばならない。大気汚染・エネルギ-欠乏・食糧不足…地上には危険がいっぱいであり、へたをするとノストラダムスの脅迫的予言が適中実現するハメに至る。王仁三郎は「過去に於て地殻の変動が六度あった」と述べているが、七度目が起こればいったいどれだけの生物が残れよう。人類史の内部を流れる時間が一大エポックにさしかかっているのは、心ある人なら誰でもが認めるところであり、今こそこの゛予言゛を深くかみしめる時である。「この神の申すことは毛筋の横幅ほども間違いないぞよ。これが違うたら神はこの世におらんぞよ」とまで断言してやまぬ国祖のみ心はどこにあるのか。大本の予言は「予め(あらかじめ)言う」ばかりではなく「言を預かる」の意も含む。すなわち神示を与えて人類の改心を迫り、善と悪との型まで顕して人類に警告したのであるから、あとは時節がくるまで神自身の吐いた言葉を神が預かるのだ。どうしても改心できぬ人類ならば、万策つきて返さねはならぬ。 じっは、神自身、滅ぼされる何物よりもいちばん強くその時を恐れ給う。二十世紀末の人類の滅亡を避けられぬ宿命とするノストラダムスの予言とは根本的に違うのである。神という陶工が気の遠くなるばかりの年月をかけて、生命の造化の土をこね、愛と智を傾けて自分に似せた理想の像を進化させつづける、その何ものにも代えがたい、道程なのである。しかも人類は神の手足、意のままにならぬ手足といって、切り捨て去っては、神もまた八拳ひげ胸先に至るまで啼きいさちる他はない。末代続く神国の世の到来を目前にしながら、神が預かる「人民三分」の警告をどうして愛し子の上に投げ返し、元の泥海に化すだろうか。今日までの大本歴史を振り返れば役員信徒の中には立替えの早く来ることを望んだ人もあったようだ。自分が大本を信じているから、むろん生き残る三分に選ばれるいう自負のために意識せずとも立替えられる七分の破滅を期待したのであろう。その心こそ神が立替えようとする独善であり、利己とも気づかず… 「天変地異(わざわい)を指折り数へ松(待つ)虫の 冬の霜先あはれなるかも」「立直し、やれ立替へとかしましく さえずる百舌の声ぞゆゆしき」「予言のみ好きな信者はともすれば妖言過言に脱線するなり」とうたって、王仁三郎は信者たちをいましめている。現実に人民三分になるほどの天災地変か原爆戦でも突発したなら、その地球上の汚染はいつぬぐい去れるか知れず、松の世の神約なぞウソ、立直しは夢のまた夢になるにちがいない。神の目から見れば人類は火あそびの止められないけんか好き、弱いものいじめのさぞ手に負えぬ問題児であろう。母親ならば「花火を投げたら火傷しますよ。けんかばかりしてたら、ほら、あぶない井戸におちます。死にますよ。お母さんは嘘なんか言わないから…」「人類三分になるぞよ。足もとから鳥が立つぞよ。この神の申すことは毛筋の横幅はども達わんぞよ」の叫びこそ、人類の存する限り生き続ける父母なる神の愛の叫びにちがいない。革命や革新はあくまで人間の意志と能力によって成しとげようとする、すなわち人間以外の力を意識せず、人間以外の意志や力をかりないというところに、その出発点がある。革命が終始、人間側のみの営みであるのに対して〞立替え立直し゛ は、人間プラス神の作業であり、両者の協調一致がなければ成就は不可能となる。神と協調し、神の指導のまにまに立替え立直しを行なうには、まず人間の小ざかしい゛自我゛を捨て去らねばならぬ。神がそのカを人間に及ぼそうとしても、容器の中が自我で満杯であるのに、そのうえ何を注ぎえようか。こんにち国際間や社会一般で考えられている協調は、そのための特殊な技術、つまり権謀術数を前提としているようだ。神との協調は、そんな次元の低いものでは役に立たない。技術ではなくまこと(誠実)である。心のまことをみたすには゛自我゛ を捨てるしかない。自我を捨てるというその一事だが、 これほど困難な作業はあるまい。 仮に、自分の努力によって自我を捨てたと思っても、努力という自我が、捨てたと思ったあとに入り込む。しかしいかに至難であろうとも、゜自我゜ を捨てるしかもう方法はない。人類の行き詰まりはそこまで来てしまったのだ。だから神は「かいしんいたされよ」と繰り返し叫ぶのである。゛かいしん゛ とは自我を捨て去るのと同義語である。不道徳な行ないに対して悔い改めるといった倫理的・道徳的次元を超える、心の奥底からの゜かいしん゛すなわち゛改神゛゛改信゛゛改心゛ である。゛かいしん゛は同時に、終末的世界からの救済を意味する。立替え立直しはまず各人ひとりひとりが神と協調(自我の放棄)する以外にないのが根本義であるにもかかわらず、革命の日本庶民版ぐらいにしか世間は受け取っていない。この魂の立替え立直しが人類ぜんたいに及んで、物質文明に汚れきった垢をすっかり洗濯したあとでなければ、みろくの世は到来しないわけである。しかしこれからは、自我を他力的に捨てさせられる動静が、矢つぎはやに起こってこよう。巨視的に世界の状況を見れば第一次・第二次大戦につぐ朝鮮動乱・ベトナム戦、そして現在にいたる地上の混乱は、息つぐひまもないスピードで変わってきている。その渦中にあるために不感症的になってかえってスピードの激しさがわからない。わかったときには神に祈るしか道はない。祈りとは本来自分の力だけでは成しとげがたい自我をのぞくために神に心を開こうとするものでなければならない。「どうか自分の中のきたない心をはらい清めて、神さまのみ心のままにお導き下さい」と、素直に神に心をゆだねるのが祈りなのだ。そこから思いがけない光が、喜びが清々しいカが湧いてくる。道徳律などを持ってきてむりやり自分で自分を抑えつけてみても、どこかに無理がしわ寄せされて別の破綻を釆たしかねない。なぜなら、よごれが消えたのではなく、ただ抑えただけだからだ。何かことが起こってからあわてて神を求める。すがりつこうにも祈りの方法が分からない。ああして下さい、こうして下さいと泣き泣き神に注文をつけてお寒銭を投げたのに効き目がないから、神も仏もこの世にいないと候むのがおちであろう。王仁三郎は「神に祝詞を奏上するとき、身慾の心で唱えれば霊界を汚すことになる」と教えた。また、開祖なおは天の大神さまを祭る綾部の゛西石の宮゛ では、特に「みろくの世早く釆たれかし」の祈り以外に、個人的な願望を祈念することは許さなかった。人類の゛自我゛ の最大なるものは利己主義と暴力主義である。筆先では前者をわれよし、後者をつよいものがちと単的に表現されている。この二つは広く解釈できるであろう。対立・闘争・戦争・軍備(核兵器)競争・あらゆる悪徳など、もちろん公害や自然破壊も含まれる。この゛自我゛ 拡充の行為をまず祈ることからはじめて人類ぜんたいへの純粋無垢な愛に急転換しなければならぬ。立替え(現在各国家間の経済戦争・資源戦争をも含めて)によって、コテンコテンに自我愛(われよし・つよいものがち)を粉砕されなければ目ざめぬのでは、もうおそすぎる。この立替えを筆先では「大峠にさしかかるぞよ」という別の言い方で現わしている。大峠というのだから、なまなかの゛峠゛ ではないはず。しかし゛峠゛であるからにはヒマラヤごとき峻嶺高峰(しゅんれいこうほう)とは異なり、だれでも越えられるものと考えていい。神は、表現用語の上でもデリケートな配慮を示されている。二つの足を交互に運ぶことによって前進する文明の話をしておいたが、後方に残った足をぐっと前に伸ばせば、最初に出た足の果たした役割りはどうなるのか。すでに前に出た足である物質文明は、次期の物質を超える新文明によって否定されてしまうのではないかという疑問が残ろう。二つの足という形容をとったため、あたかもこれまでの世界のごとく相対的次元の活動と同じではないかと考えられるかもしれぬが、そうではない。絶対的ひとつのものが仮りに二つの働きをするかのような表象が起きただけのことで、もともと一つの動きでしかない。一人の人間の体はあくまで一個の肉体であって、それが前進するとき二つの足で自由に動く。二つの足があるから一個人が別々の動きをするとは考えられないのと同様である。初めに出た物質文明を、次に出る別次元の足が否定するのではなく、より高い次元へと押し上げていく。そのためにも火の雨のごとき、元も子も無くすような事態に到らないよう一刻も早く改心が急務となってくる。゛大本゛ の予言は、厭世主義的なものではなく、人類の改心次第で楽観主義が基本となっていることがわかるだろう。人類の未来は、きわめて楽観的なものであり、わが日本古来の考え方から言っても生成発展以外に人間の存在意義はないのだが、物質文明の行き過ぎによる害悪を修正していくために、宇宙意志からの警告として立替え…浄化作用…が強調されるのである。

そのことが大変災のように受取られるのだ。ノストラダムスのごときは日本の哲学のように生成発展の真理をつかむことができなかったので、カタストロフィの面のみが心眼に映り、強調喧伝することになったのだと言えよう。ここでつけ足しておきたいことは、゛峠゛ を越えた向こう側… つまり物質文明が否定されるのでなく、それがもっと高い次元に押し上げられた新しい時代のことを、大本では゛松の代゛゛神国の世゛゛みろくの世゛ という。この理想世界の実現はもう目の前に近づいており、これを知らせることが立替え立直しのキイ・ポイントである。みろくの世に近づくためには、立替え立直しの峠を越さねばならない運命をいやおうなく背わされているが、各国家、各個人によりまたそれぞれの心の動きや体力の差異などにより、おのおの越える度合いが違ってくる。荷物の軽い人・重い人・足の強い人・弱い人・鼻うたまじりで越えうる人・息も絶えんばかりにあえぎあえぎ越える人・さまざまな状能が見られるわけである。すでに峠越えは始まっているのだが、自分を含めて現実の周囲の状況というものは案外つかみがたいのかもしれない。また立替え立直しを自分以外のこととのんきに考えてはならない。実は自分自身の問題なのであって、立直しが完成する時期はいつかなどということを考える人もいるが、その本人自身が立替えに励むことの結果として、本人そのもののうえに立直しが実現してくるのだ。出口王仁三郎の歌にも「立替えを 世人のこととな思いそ 立替えするのほ己が心ぞ」とある。問題は立直された〞みろくの世゛ というものを願うのはいいが゛みろくの世゛は物欲や利己主義の延長上にはない。地上天国といってもこれまでの物欲中心の享楽的な時代の再現ではないのだ。立替え立直しは、或る区切られた時間内での問題ではなく、実は人類が存するかぎり永遠に続く問題であるとともに、現時点での問題でもある。また漠然とした人類全体の立替え立直しということにとどまらず、自分自身の問題であると受取らねばならない。だから立替え立直しはつねに進行過程にある。楽は苦とともにあり 苦は楽とともに存在するものとは王仁三郎もしばしば語っている。この点を間違えると甘いユートピア願望の心情でしかないことになる。「世のはじめ世の終りなるみろくの世 なるもならぬも心なりけり」と出口すみもうたっている。それでは゛みろくの世゛ とはどういう世界なのか。゛みろくの世゛の到来こそが王仁三郎の未来予言の根本なのだが、顕の幽界での見取図は如何…。霊主体従の教えが浸透し「升かけひいたようにいたすぞよ」と筆先にあるように、まず貧富の差がぐっと縮まる。資源、エネルギー、土地、資本から独占欲が拭い去られ、神から与えられたものとの自覚が身についていく。「世界を一つの(主権)王で治めるぞよ」の筆先は、さらに今日のような国家主権がなくなって世界一家となることを示している。主権国家群が解消されれば、必然的に戦争がなくなる。したがって、必要のない軍備は撤廃されるが、こんにち各国家で持っているような警察に似たものが治安維持の目的で残される。こういう発想はすでに世界連邦論としてあり、別に新しくもないと思われようが、王仁三郎やなおの予言したのは明治の中頃である。しかも、漠然とした世界政府諭ではなく、世界が十二のブロックに編成されて統治されることが語られている。この十二のブロックが連邦的に組織されて統治者はいわば大統領的パターンによって選出される。十二のブロックは自給自足のできる経済圏を基盤として成り立っていて、相互に物々交換しあう仕組みになるという。これはある意味では古代の経済システムに還えるようだが、貨幣がなくなるのではく世界全体として統一されるのであろう。統一経済・計画経済といってもこんにち考えられているような画一的な統制論、すなわち左右両翼における全体主義ではない。霊と体との価値観の転換のあとにおとずれる世界だから、ファッショか共産主義的世界統一とはまるで違ってくる。細部にどのような仕組が行なわれるか、人智による推論のみではわからない。たとえていえば日本州、アメリカ州といった各ブロックは経済的政治的にも自主性をもちつつ、渾然と世界政府的機関のもとに統一され栄えていく。すべてのことがらを主神を根元とした宇宙的な視野、霊主体従的発想からとらえるようにならざるをえない。経済の基盤を考えたところで人間が無から有を生産するなどありえまい。地球上ないしは大気圏内の資源から取り出して、それを加工するに尽きる。人的加工を称して生産というが、言葉の真の意味における生産などは人間の能力を超える。子供を産むにし.ても、すべて親の智力を傾けつくしてみたところで自分が企図する人物を産み分けることは不可能だ。人間力とは別の所より生命が宿されるわけだから、自分が産むのではなく産まされるにすぎない。生産はしたがって神のみの成したまうところでしかない。種を播くという行為は種が新しい生命を芽吹き出すために世話をすることでしかない。種そのものを人間が生み出すわけにはいかない。神ながらの神のお仕事である。そう考えていくと資本にしても農業にしても、その根本はすべて神に帰する。神の賜物を独占したり、利のために私有すること自体、倣慢の行為となろう。「これはオレの土地だ」などと囲いをつけ、所有権をふりまわすが、土地はもともと神以外の誰の産んだものでもない。土地も資本も権力も借りもの、神りの預かりものにすぎぬ。いずれ体とともにお返ししなければならない時がくる。人々の考え方が無理なく自然に変わってきて、土地は゛私有権゛ではなく、神からの゛拝借権゛とも呼ぶべきものとなろう。人の心がこうして神に向かい素直に開いていってこそ八拳須(やつかひげ)心の前(さき)に至るまで啼きいさちき…のスサノオノ命の神霊も治しめすべき地の上に安んじて顕現なされるであろう。みろくの世といっても原始生活に戻るわけではないからエネルギーの問題がやはり肝心である。エネルギーはこんにちのような公害を生み出すたぐいのものではなく一種の磁力を用いる。潮力や風力を利用することも盛んになるという。今ではすでにそれらの研究もなされつつあるが、予言された当時では影も形もなく、世間からは架空な妄想とうけとられていた。愉快なのは「電線が地上に張りめぐらされているうちはだめな世の中や。゛みろくの世゛ になればそんなものはなくなる」と言うのだが、ヨーロッパの一部の都市では電線を地下に埋めて、サッパリとした町並みを呈しているらしい。しかし美観上、便宜上といった意味ではなく電線の不用な時代、つまり別のエネルギー源が開発されて電気にとってかわる世を暗示したのだと考えられる。そうしたエネルギーや資源は、いずれ枯渇するようなチャチなものではなく、無尽蔵に宇宙にあると王仁三郎は言っている。無尽蔵の資源といっても使い捨てで廃棄物の処理にゆきづまることは全くなくなる。その点は過去の農業のように循環方式が生かされる。稲を刈って脱穀したあとのモミがらの活用、ワラの活用、土への還元と次期の播種・作付に役立つ循環方式だ。あらゆるものが無理なくめぐりうつっていき、公害とか損失などの余地がなくなる社会がくるのである。昭和十三年八月十日、京都地方裁判所での第二次大本事件公判速記録によると、庄司直治裁判長の「東京は元のすすき野になるぞよ。なごうはつづかぬぞよとあるがこれはわからぬね」に対して王仁三郎は答えている。「空襲なんかで、今の東京はつづかないけれども、地下にすまいができて町ができる。国防上そうなる。先へゆけば科学が進んできて海の中まで電信局ができます。海の底まで…私は見ておりますから」「見た-」「霊界で見たのです。海の中まで行ったことを見たのであります。若い人がいたらおぼえていてもろうたら分ります」「見た」というのを「うそつけ」と叱るわけにもいかず何をどう裁いていいのか裁判所も因ったであろう。翌十一日の公判廷では「戦争は外国との戦争か」「外国との戦争です。日本と外国の戦争があるから兵糧をたくあえておかねばと前から言うているのです」「外国とか」「外国とです」何と疑い深い。あと三年もすれば米・英と戦い、六年もすればいやでも敵機が東京の空をおおうというのに、先が見えぬ人間ほどしまつにおえぬ者はない、と王仁三郎はさぞ情なかったであろう。「東京に攻めかけるというのは・・・」「東京に外国が攻めかけてくるのです。・・・-外国から東京へ…なんで大本が東京へ攻めてゆきます。攻めてゆくだけのカもありやへぬ」この裁判長の頭の中に.は、それでも大本が武装蜂起し大砲をひっぱり出して東京へ攻めかけ、宮城の明け渡しをせまり、日本軍を陣曳きさせようとの゛大本陰謀゛ の妄想が消えていかない。ボタン一つ押せば丹波にいて花のお江戸のお芝居が見えると言っても今ではあたりまえ、驚いたり疑う者こそ笑われよう。テレビどころかラジオもデンワもない頃に、その゛映し出される機械゛ は腕時計式の小さな簡易なものが出来ることを彼は予知している。電話も腕時計式のものが出現するので、顔を見ながら世界中と話が交わせると言っている。腕時計式のテレビやデンワまでは、まだ現品を見たことがないがすでに開発中でもあろう。王仁三郎が空中に文字を書いて押してやれば遠隔地の相手にちゃんととどくなぞといったものだが、超能力を使わなくてもテレックスが発達してそれくらいできる世がくるかも知れない。また時速七百キロの弾丸列車が地上に浮いてプーッと行くのだと王仁三郎は表現した。こんにちで言うエアーカーやリニアエアーカーを示しているのだろうが、当時はそんな言葉も二百キロの新幹線も生まれていない。東京―ニューヨーク間は四十五分、地球上のあらゆる地点へ行くのに三時間ですむようになる。世界日帰り旅行も可能で、地球はせまくなる。土の中をもぐって行く交通機関(地下鉄に非ず)、つまり土を掘りながら進む乗物ができるという。航空機とは別に、風車や羽車を駆使して自由自在に空がとべると大正十一年に行っている。絶対に落ちない飛行機ができるとも断言しているから、現在の航空原理とは興った次元の飛行機が生まれるのか。人類の発想の根源が変わると科学的原理もまた異次元に向かって思考され、開発されて激変しよう。その変化はぐいぐいスピードアップされていくであろう。王仁三郎の予知は人口問題にもわたる。夫婦間には自然に二、三人の子供しか生まれないようになるから、生存競争に苦しむことはなくなる。一部の学者が必配するほど地球上に人間があふれ出る懸念は杞憂となりそうだ。王仁三郎によれば、地球上での理想的な人口は五十六億七千万人という。一夫一婦制の原則がくずれることはないと言っている。体質も変わってきて寿命がますますのび、二百歳ぐらいから老化現象がはじまるくらいだ。寿命が伸ばされる以上、それに見合った社会の仕組となるだろうが、具体的にどうなるかはわからない。 労働時間は一日三時間、人によっては一時間だけでもいい状態になるという。月に五日の基本的休日のはかに、祭日が三日、つどうで八日の休日を予見しており、各個人の状況に応じて一カ月分ないし一年分にまとめてとってもよいようになる。余暇には霊的向上を培うような芸術的修練がそれぞれの志向によって楽しまれるであろう。ネクタイ着用のごとき形式上の服装よりも、ゆるやかな古代の衣服のような優美さがよろこぼれ、生活そのものが美化されていくことになる。゛みろくの世゛といっても、人間の社会に変わりはない。善悪美醜相交わって成る人間のうち、悪がはみ出してきても不思議はない。社会的制裁用のイヤリング(耳飾り)なんかがあるという。おシャレの装身具も価値観の変化で違った利用のされかたになるものだ。都市の構造といえば円形に近い街区となり、ローマのコロシアム風な余裕のある広がりを示し、各都市の中心部の広場には精神的な施設の建物、文化センターなどが営まれて、いわゆる文化のエリアとも称すべきものとなる。都市の人口は十万人が理憩とされるが、世界の各地にはそれぞれの風土的特色が加味されていく。教育はまず胎教から始まる。母親の霊的向上に力点が置かれるのだろう。年代を三段階に分けて十三歳以下は小国民教育、二十歳以下は中国民教育、二十歳以上を大国民教育とする。低い年齢層には女性の教員が担当する。天才教育、つまり各自の天賦の才能を引き出す時期は中国民教育課程である。中国民教育ではとくに伝記・地理・歴史を重視するが、総体的には感恩・鍛錬・順序(事柄の本末)が教育の三大眼目に据えられて、知育・徳育・体育・技育が配されると予言する。愛の心をはぐくみ育てるために子供のときから農業に従事させて物を育てること、土に親しむことの喜びを教える。世間へ出てからの資格をとるための教育は姿を消し、人格の育成、人間と人間がじかに触れ合う昔の塾に似た形のものが尊ばれる。いい意味での学校組織は残され、質的な向上が目ざされると言っている。(王仁三郎の未来予言についてご紹介した部分は、出口京太郎氏の講演や『おほもと』誌所載の同氏が未来予測に関して述べられたものから引用させていただいたことを付記しあわせて感謝の意を表する。王仁三郎は゛万教同根゛を強調し、春の日のように大らかに、生きざまとして身体全部で具現した。彼が゛巨人゛ と称されるのはその包容力のとほうもない広がりにもあったのだが、宗教者は゛巨人゛ でなければならないはずである。現在までの各宗教は教義はどうあろうとも現実にはつねに他宗に批判的で゛わが仏等し゛ の態度を捨てきれぬ。他宗との調和を欠いて、狭苦しい砦から出られないのだ。各宗教がその最大公約数とすべき人類の゛和゛をいかに具現するかが古来宗教者の究極の眼目であって、それ以外の゛宗教゛ は不用になる。マルクスの言う宗教否定とは異なる次元において、宗教はなくなるであろう。各人の身魂の立替え立直しが完了して神と一体化する世、王仁三郎も「宗教のなくなる世がみろくの世だ」と言っている。 …こんど天地の岩戸が開けたら、草木も人民も、山も海も光りかがやいてまことにそこら中がきらきちいたして、たのもしい世のおだやかな世になるぞよ。これがまことの神世であるぞよ。雨もほしい時分にふり、風もほしい時にふいて人民の身魂も清らかになり、天下太平、天地のみたまが勇む世になるぞよ。月も日ももっと光りがつよくなりて、永晶のようにものがすきとおりて見えだすから、悪の身魂のかくれる場所がなきようになるぞよ。用意をなされよ。(明治三十六年旧六月五日)…これまでの世は天の高さはほど知れなんだなれど、天も近うなる田舎に都がでける世がまいりたぞよ。 (明治四十四年旧九月十一日)